相模国分寺
本堂
所在地神奈川県海老名市国分南1丁目25番38号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度27分9.63秒 東経139度23分56.90秒 / 北緯35.4526750度 東経139.3991389度 / 35.4526750; 139.3991389
相模国分寺(さがみこくぶんじ)は、神奈川県海老名市国分にある高野山真言宗の寺院。山号は東光山。院号は醫王院。本尊は薬師如来。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、相模国国分僧寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、古代寺院跡である相模国分寺跡・相模国分尼寺跡(ともに国の史跡)についても解説する。 聖武天皇の発願によって建立された国分寺の1つ。奈良時代の8世紀中期に相模国分寺と相模国分尼寺(相模国分寺から北に約600mに位置)があわせて建立された[1]。 平安時代の国史等では建立後に火災による焼失や地震による倒壊にあっており、発掘調査などから少なくとも3回は大規模な修理あるいは建て替えが行われたとみられる[1]。10世紀には衰えたが、鎌倉時代に入って一旦修復されたと見られる。しかし室町時代から戦国時代にかけて再び衰微し、安土桃山時代から江戸時代にかけ、ようやく再興された。そして幕末から明治初年にかけて三たび衰えたが、明治時代に復興し現在に至っている。 鎌倉時代に作られた梵鐘は、国の重要文化財に指定されている。また、古代の寺院跡は国の史跡に指定されている。 相模国分寺の創建に関して、その遺構が法隆寺式の伽藍配置を成すことから、豪族の氏寺として建てられた寺を8世紀半ば以降国分寺にしたと推測する説があった。しかし寺域内から奈良時代初期の住居跡が発掘され、豪族の氏寺を国分寺に転用した説は否定されている[2]。 また、相模の国分寺は元々は現在の小田原市にある千代廃寺
概要
歴史
創建・奈良時代塔復元模型3分の1スケール。海老名中央公園に展示。
相模国分寺の大きな謎の1つは、国分寺が相模国府の近くに建てられなかった可能性が高いことである。諸国国分寺は国府付近に建設される例が多いが、相模国の場合には国分寺の近くに国府と見られる遺構は現在のところ見つかっていない。相模国分寺の近くに未発見の初代相模国府があるとの説も残っているが、現在のところ今の平塚市四之宮にある遺跡群が最初の相模国府であったとの説が有力である。国府から離れた場所に国分寺が建設された理由について未だ定説はないが、多くの関東地方の寺院建設に携わった壬生氏が、高座郡を根拠地としていたからではないかとの説がある[4]。
国分尼寺については、出土瓦の年代や相模国分寺の南北軸とずれた配置などから、国分寺の創建よりも少し遅れて8世紀第四四半期頃に建立されたと考えられている。 9世紀に入ると、律令国家の衰退に伴って国分寺は火災や地震などに見舞われ、衰退が進行した。819年には火災に遭い(『類聚国史』)、878年には大地震(相模・武蔵地震)で本尊など仏像が破損したうえ、地震直後の火災で焼失したという(『日本三代実録』)。 発掘結果からも、国分寺は激しい火災に見舞われたことが明らかになっている。塔跡の近くからは七重塔の水煙と判断される金属製品が見つかっており、創建当時の水煙、何らかの理由で落下後に修復を受けた水煙、創建当時のものが失われた後に再鋳された水煙の、合計3期があったと見られている。また塔や僧坊など相模国分寺の建物も3期に分けられるとされ、それぞれ初回建立時、819年の火災後の再建、878年の地震とそれに伴う火災後の再建によると見る説がある[5]。 しかし発掘結果の解釈によっては、国分寺の建物が焼失してしまった後、再建された跡が見られないとし、878年以降の相模国分寺の再建を疑問視する説もある。この場合、『日本三代実録』の881年の相模国分寺再建の記事や、『日本紀略』の940年の「相模国分寺の仏像が雨のような大汗をかいた」との記事との整合性が問題となる。そのため、878年の大地震の後に相模国分寺は別の場所に再建されたと推測する説もある。この場合、相模国分寺跡の南東側高台にあった上の台廃寺(伝薬師堂)が、再建先の候補のひとつとなる[6]。 一方、国分尼寺の方は873年に漢河寺という寺に国分尼寺を移転したが、878年の大地震で漢河寺が倒壊したため、881年にもとの国分尼寺に戻ったとの記録がある。発掘結果からもそれらの記述を裏付けるように、最初の礎石の上に建立された瓦葺の建物が焼失した後に、掘立柱の茅葺と推定される建物が再建されていることが判明している。最初の建物の焼失は発掘結果から9世紀後半と推定され、漢河寺への国分尼寺の移転は火事による焼失が原因であった可能性が指摘されている。なお国分尼寺については881年以後まもなく、再度漢河寺に移されたとの説もある[7]。しかし現在のところ漢河寺があった場所は不明である。
平安時代
地震・火災に伴う再建
衰えと成勝寺の末寺化