相模台
町丁
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度31分20秒 東経139度24分17秒 / 北緯35.522161度 東経139.404625度 / 35.522161; 139.404625
国 日本
都道府県 神奈川
市町村 相模原市
行政区南区
地区相模台地区
人口情報(2020年(令和2年)10月1日現在[1])
人口16,183 人
世帯数8,121 世帯
面積([2])
1.020122043 km²
人口密度15863.79 人/km²
郵便番号252-0321[3]
市外局番042(相模原MA)[4]
ナンバープレート相模
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相模台(さがみだい)は、神奈川県相模原市南区の町名および同市の地区名であり、座間市相模が丘が住居表示を実施する前の大字名である。現行行政地名は相模台一丁目から相模台七丁目。住居表示実施済区域[5]。 相模原市の町名、座間市相模が丘が住居表示を実施する前の大字名。ともに小田急小田原線小田急相模原駅の近隣を範囲とする地名である。相模原市の地区名としてはさらに広く、南区の中央部を占める。 当区域は元々「相模野」と呼ばれる原野の一部であり、周辺農村の入会地とされていた。それまで人が誰も住んでおらず江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった。江戸末期の嘉永6年(1853年)[6]にこの入会地が分割されて周辺各村の領域に組み込まれ、現在の小田急相模原駅付近は高座郡座間宿村字北広野、新田宿村飛び地字見分塚、上鶴間村、新戸村、磯部村の各村が境界を接する区域となった。それらの村はやがて1889年(明治22年)の明治の大合併により同郡座間村(大字座間字北広野、大字新田宿飛び地字見分塚)<現・座間市相模が丘>、大野村(大字上鶴間)<現・相模原市南区南台>、この相模原市南区相模台は新磯村(大字新戸、大字磯部)となった。 この地の将来性に着目した高座郡綾瀬村蓼川の平出富士太郎という篤志家が、1877年(明治10年)頃に私財を投じて、現・小田急相模原駅の周りと駅の北側一帯のこの地、約二十町歩を購入し、当時の座間宿村の人々に開墾を勧め呼びかけた。その後、その熱い呼びかけに応えて座間河原宿の鈴木孫七以下数名が開墾に加わった。まだ一面の萱(かや)が生い茂る不毛の原野で秣場[7]であった「芝原・しばあら」[8]と呼ばれた相模台地区に、初めて人の手が入ったのは1877年(明治10年)であり、原野の開墾が進められた。元々この地には府中みち(現・行幸道路)という、厚木から当時の武蔵の国、国府が置かれていた府中に通じる古街道が通っており、開墾地もこの街道に沿って耕された。鈴木孫七以下数名は座間河原宿から毎日鍬を担ぎ弁当持参のわらじ履きで通っていた。そのうち1880年(明治13年)新開の中にようやく一戸の家を建てて全員で住み着いた。この時からこの地は中和田新開または蓼川新開と呼ばれるようになった[9]。 然るに農政上、明治時代になってから畑作地として開墾された土地を「新開」と呼び、すでに江戸時代に開墾された畑作地は「新田」と言って区別した。 しかしながら各村の境界域ということもあり、市街地を形成することは困難を極めたが、その後、1894年(明治27年)になって開拓者たちは次々と府中みち(現・相模原市南区南台五丁目付近)に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加った。 1919年(大正8年)には14戸にまでなって府中みちと辰街道[10]の交差する座間分を含めた未開地のなかに小さな集落が出来上がり、これが現在の相模台地区発展の「原点」となった。 大きな転換点となったのは、1938年(昭和13年)の臨時東京第三陸軍病院の進出である。新磯村大字磯部字大野[11]に同病院が開設されるのに合わせて、小田原急行鉄道が、同年3月1日に付近を通過していた小田原線上の座間町[12]と大野村との境界付近に病院前駅[13]を開業し、後に同駅と同病院を結ぶ街路[14]周辺が市街化する契機となった。 1941年(昭和16年)4月29日、大野村、新磯村、座間町は上溝町、麻溝村ほか3村と合併して高座郡相模原町となったが、戦後の1948年(昭和23年)9月1日に旧座間町が分離独立し、残りの区域で1954年(昭和29年)11月20日に市制施行して相模原市が発足した。 終戦後、臨時東京第三陸軍病院は国立相模原病院となり、旧新磯村と旧麻溝村にまたがって広がっていた旧日本軍陸軍士官学校の相武台練兵場(軍事演習場)が払下げられて引揚者の入植による開墾が行われた。1951年(昭和26年)、相模原町はこの区域に大字新磯野、大字麻溝台の2つの大字を起立している。1950年代に入り、小田急相模原駅周辺および同駅と国立相模原病院間の街路を中心とした区域で市街化が始まり、それは1960年代以降も急速に進行した。
概要
歴史