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この項目では、相模トラフ沿いの海溝型地震全般について説明しています。
1923年に南関東で発生した地震については「関東地震」をご覧ください。
1923年に発生した地震による震災については「関東大震災」をご覧ください。
1923年大正関東地震(赤塗りの領域)と1703年元禄関東地震(赤点線内の領域)の想定震源域(地震調査委員会, 2004)
相模トラフ巨大地震(さがみトラフきょだいじしん)は、相模トラフのプレート境界(メガスラスト)で発生したと考えられている巨大地震[1][2][注 1]。
1703年元禄関東地震および1923年大正関東地震が相模トラフ沿いの巨大地震と考えられているが[3]、それ以前については該当地震や再来間隔など諸説あり詳細は不明である。
なお、各々の地震は「元禄関東地震」、「大正関東地震」などと呼称されているが、相模トラフ沿いの巨大地震を指して「関東地震」と総称する場合もある[4]。 南関東では相模湾のフィリピン海プレートと北アメリカプレートの境界(相模トラフ)を震源とする巨大地震が繰り返し生じていると考えられている[誰?]。有史以前の発生については不明で、歴史記録に残っている地震としては元禄16年(1703年)にマグニチュード8.1-8.5の元禄関東地震、220年後の大正12年(1923年)にマグニチュード7.9-8.3の大正関東地震(関東大震災)が記録されている。 また、元禄地震と大正関東地震の間に発生した安政2年(1855年)の安政江戸地震(安政の大地震)は震源断層が特定されておらず[5]、相模トラフ沿いの巨大地震には含めない。なお大竹(1980)は、この地震の震源域については1923年関東地震の相模トラフより北側の内陸寄りと考えており、明治27年(1894年)の明治東京地震はさらに深い地震と考えている[6]。詳細は「南関東直下地震」を参照 1703年元禄関東地震から1923年大正関東地震までの再来間隔と大正関東地震の推定断層滑り量から、相模トラフ西半分のプレート間の結合度(プレート間カップリング)は、ほぼ100%に近いと考えられプレートの運動による歪みは殆ど地震によって解放されていると考えられている[2]。 一方で、フィリピン海プレートと本州側のプレートとの力学的境界は既に銭洲付近にあり、地質学的時間スケールでは駿河トラフで起こるとされる東海地震も、大正関東地震もプレート内地震となるとする見解も出されている[7]。 南関東の古い歴史地震の記録は、天正18年(1590年)の小田原北条氏の滅亡と徳川家康の江戸入城を境にしてそれ以前は鎌倉時代を除くと極めて少ないため、相模トラフ巨大地震は史料から確証が得られていない[2]。しかし、878年(相模・武蔵地震)、1293年(鎌倉大地震)、1433年などにも大被害を伴う地震の記録があり相模トラフ沿いで発生した可能性が考えられ、それ以外にも未知の巨大地震が埋もれている可能性があるとされる[2]。1257年の地震も候補に挙げられている[8][9]。以下の西暦換算はユリウス暦としている。
概要
中世以前の相模トラフ沿いが震源域と疑われる地震
弘仁9年7月(818年)- 『類聚国史』に記された関東諸国の地震を1923年関東地震と同類のものとする見方もある[10][11]が、相模・武蔵・下総・常陸・上野・下野等国とされ上総と安房が記されていないこと、津波の被害の記述がないことなどの理由で萩原尊禮(1982)はこの地震を内陸地震としている[12][13]。
元慶2年9月29日(878年10月28日)- 『日本三代実録』に記された関東諸国の地震(相模・武蔵地震)は、伊勢原断層の活動時期に合致するとする説と[14]、館山市の海岸で見出された900年頃と推定される津波堆積物から相模トラフのプレート境界地震とする説がある[15][16]。
正応6年4月13日(1293年5月20日)- 石橋(1991)は、鎌倉に大震災をもたらした永仁地震(鎌倉大地震)が相模トラフのプレート境界型巨大地震であった可能性を指摘している[1][17]。三浦半島の小網代湾では、この時期に対比される可能性のある津波堆積物が見出されている[18]。また、同時期の隆起による離水によって形成された岩井低地の浜堤列が見出されている[19][20]。
明応4年8月15日(1495年9月3日)- 『鎌倉大日記』に高徳院の大仏殿を流失させたと記録される、明応(関東)地震は、東海地震とされる1498年明応地震の誤記[21][22]、あるいは『梅花無尽蔵』の記録から文明18年(1486年)の時点で大仏は露座であったと記され、『鎌倉大日記』の記録は疑わしいとされてきた[23]。