相模ダム
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相模ダム

左岸所在地神奈川県相模原市緑区与瀬
位置.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度36分55秒 東経139度11分44秒 / 北緯35.61528度 東経139.19556度 / 35.61528; 139.19556
河川相模川水系相模川
ダム湖相模湖
ダム諸元
ダム型式重力式コンクリートダム
堤高58.4 m
堤頂長196 m
堤体積174,000
流域面積1,128.5 km²
湛水面積326 ha
総貯水容量63,200,000 m³
有効貯水容量48,200,000 m³
利用目的上水道工業用水発電
事業主体神奈川県
電気事業者神奈川県企業庁
発電所名
(認可出力)相模発電所 (31,000kW)
施工業者熊谷組
着手年/竣工年1937年/1947年
出典[1]
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相模ダム(さがみダム)は、神奈川県相模原市緑区一級河川相模川に建設されたダム。高さ58.4mの重力式コンクリートダムで、神奈川県企業庁が管理する補助多目的ダムである。日本における河川総合開発事業の初期の例でもあり、ダム湖(人造湖)である相模湖(さがみこ)は相模原市中心部や横浜市川崎市など神奈川県民の大多数にとって貴重な水瓶の1つである。
沿革

相模川は古来より度々水害に見舞われ、治水が急務であった。その一方で横浜市や湘南地域は人口が急増し新規の上水道補給が必要になった。こうした経緯から神奈川県は1933年(昭和8年)より相模川の総合利水計画を進めるための調査を開始していたが、折から物部長穂が提案した「河水統制計画案」が内務省によって採用され、1935年昭和10年)に鬼怒川奥入瀬川・浅瀬石川・小丸川諏訪湖等7河川1湖沼を対象に「河水統制事業」を立案した。これは現在の「河川総合開発事業」の原点であるが、この事業で相模川も対象となった。

相模川本川に多目的ダムを建設して上水道工業用水道の供給を行い、併せて貯水を利用した水力発電を行うべく1938年(昭和13年)に神奈川県議会の臨時議決を経て正式に相模川河水統制事業、のちの相模川総合開発事業がスタートし、根幹施設として相模ダムの建設に着手した。

第二次世界大戦後においても、日本の経済を支える重要な施設の一つであり、1947年(昭和22年)7月17日には、昭和天皇の行幸(昭和天皇の戦後巡幸)があった[2]
軍の介入

1941年(昭和16年)より建設に着手したが、建設に伴い196戸が水没することから水没住民より強固な反対運動が持ち上がった。だが、日中戦争勃発後戦時体制へ突き進む陸軍海軍は、海軍艦艇建造の要である横須賀海軍工廠や軍需産業が密集する京浜工業地帯への電力・用水供給を急いでいた。このため反対住民に対し荒木貞夫などが津久井郡藤野町(現・相模原市緑区)へ出兵して陸軍閲兵式を行い、反対する住民に対して示威行為を以って強力な圧力を掛けた。

神奈川県及び山梨県の二県にまたがる水没補償は1938年10月より始まり、上記の経緯を経て1940年(昭和15年)11月3日に妥結された。このように有無を言わせず本体工事を着工させた戦時下ならではの軍による圧政があったことは、ダム建設の暗部として記憶されている。途中水害による設備の流出や戦争による中断を経て1947年(昭和22年)に完成した。

戦時下で進められた建設工事においては労働者延べ360万人が投入され、日本人のほか、多くの朝鮮人中国人が従事した。過酷な労働下で、記録に残っているだけでも83人が命を落としたとされる(1979年以降、毎年7月末に地元有志らが合同追悼会を開催している)[3][4][5]
目的相模発電所

相模ダムは多目的ダムとしては沖浦ダム青森県・浅瀬石川。1991年水没)や向道ダム山口県錦川)と並ぶ河川総合開発事業草創期に建設されたダムである。その目的としては直下流の津久井発電所地点において慣行水利権分の用水を供給する不特定利水、相模原台地一帯2,700haへのかんがい用水の供給、横浜市・相模原市・川崎市等神奈川県の大部分への上水道(日量894,000トン)・工業用水(日量186,000トン)の供給、神奈川県企業庁電気局管理の相模発電所(認可出力31,000kW)における水力発電で、補助多目的ダムである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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