相撲
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この項目では、武道・武術について説明しています。雑誌については「相撲 (雑誌)」をご覧ください。

相撲すもう
相撲絵(歌川国貞、1860年代)
競技形式神事・素手・打撃・組み合い・投げ合い
発生国 日本
発生年古代以前
創始者不明
源流すまひ
派生種目組討大相撲アマチュア相撲女子相撲
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相撲(すもう)は、土俵の上で力士が組合って戦う形を取る日本古来の神事で、同時にそれを起源とする武芸武道の一つ。興行としては大相撲が行われている。日本由来の武道格闘技スポーツとして国際的にも認知されている。
概説杣ヶ花渕右エ門(そまがはな ふちえもん)、1818年。大小のを佩刀し武士と同じ待遇であった力士[注釈 1]

相撲は古代以前(伝承としては神話の時代)に始まったとされ、江戸時代には庶民の娯楽として隆盛を極めた[1]

現代の相撲について民俗学の研究ではその担い手と歴史的系譜から、相撲を生業とする人々による興行相撲から連なる大相撲、学生相撲や実業団相撲などのアマチュア相撲、地方の神事や余興として行われてきた相撲(新田一郎や池田雅雄らによって「素人相撲」に分類された草相撲、野相撲、奉納相撲など)の3つに区分する[2]。特に日本相撲協会が主催するスポーツの興行としての大相撲が有名だが、神事に由来するため、他のプロスポーツと比べて礼儀作法などが重視されており、生活様式や風貌なども旧来の風俗が比較的維持されるなど文化的な側面もある。

「日本の国技は相撲である」と巷で言われることがあるが、日本は、法令政令で国技を定めてはいない。

日本国内外で同じような形態の格闘技としては、沖縄本島沖縄角力(シマ)、モンゴルブフ中国シュアイジャオ朝鮮半島シルムトルコヤールギュレシセネガルランブなどがある。それぞれ独自の名前を持つが、日本国内で紹介される場合には何々相撲(沖縄相撲(琉角力)、モンゴル相撲、トルコ相撲など)、といった名で呼ばれることが多い。
語義

新田一郎によると「相撲」は当初は争うことや抗うことを意味し、特定の格闘競技を意味したものではなく、格闘や技芸を一般的に意味する漢語であったという[2]

「すもう」の呼び方は、古代の「すまひ」が「すもう」に変化した。表記としては「角力」、「?力」(『日本書紀』)、「角觝」(江戸時代において一部で使用)、など。これらの語はもともと「力くらべ」を指す言葉であり、それを「すもう」の漢字表記にあてたものである。19世紀から20世紀初頭までは「すもう」は「角力」と表記されることが多かった[3]。古代には手乞(てごい)とも呼ばれていたという説もある。(手乞とは、相撲の別名とされ、相手の手を掴むことの意、または、素手で勝負をすることを意味する。)

大相撲を取る人は正式名称は「力士」(りきし)といい、また「相撲取り」、親しみを込めて「お相撲さん」とも呼ばれる。

相撲の世界のことを「角界」と呼ぶことがあるが、これは嘗て相撲の漢字表記を「角力」あるいは「?力」「角觝」としていたことに由来する。

英語では「sumo(スモウ)」または「sumo-wrestling(スモウ・レスリング)」と表記される。

なお、日本では組み合う格闘技的な競技を総じて相撲と呼ぶ。用例には腕相撲足相撲指相撲、拳相撲(wikidata)、草相撲などがある。他に、相撲を模して行われるものに紙相撲がある。
歴史「大相撲#歴史」も参照
古代天正六年(1578年)、織田信長が安土城にて相撲を観戦。両国国技館の「織田信長公相撲観覧之図」隅田川テラスにかかる歌川広重の「相撲の図」の模写

日本における相撲の記録の最古は、『古事記』の葦原中国平定の件で、建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して、出雲の建御名方神(タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後タケミカヅチの腕を掴んで投げようとした描写がある。その際タケミカヅチが手を氷柱へ、また氷柱から(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。

人間同士の相撲で最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23年7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「?力」(「すまいとらしむ・スマヰ」または「すまい・スマヰ」と訓す)での戦いがある(これは柔道の起源ともされている)。この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に蹴り技の応酬であり、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。これらの記述から、当時の相撲は打撃を主とする格闘技であり、既に勝敗が決した相手にトドメの一撃を加えて命までをも奪った上、しかもそれが賞賛される出来事であった事から見ても、少なくとも現代の相撲とはルールも意識も異なるもので、武芸武術であったことは明確である[4]。宿禰・蹴速は相撲の始祖として祭られている[5]

さらに『古事記』の垂仁記には、ここをもちて軍士の中の力士の軽く捷きを選り聚めて、宣りたまひしく、その御子を取らむ時、すなわちその母王をも掠取れ。髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に、掬みて控き出すべし。とのりたまひき。ここにその后、かねてかその情を知らしめして、悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ、また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし、また酒もちてその御衣を腐し、全き衣の如服しき。かく設け備へて、その御子を抱きて、城の外にさし出したまひき。ここにもの力士等、その御子を取りて、すなはちその御祖を握りき。ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち、その御手を握れば、玉の緒また絶え、その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ。

とあり、初めて「力士」(ちからひと・すまひひと と訓す)の文字が現れる。以降の記紀六国史においても、相撲に関する記述が散見される。なお「相撲」という言葉そのものが初めて用いられたのは日本書紀雄略天皇13年の記述で、当時の木工にして黒縄職人であった猪名部真根が「決して(刃先を)誤らない」と天皇に答えたため、雄略天皇が采女を呼び集めて服を脱いで褌にして相撲を取らせた記述が初見になる[6]

力士形埴輪
茨城県舟塚古墳出土。

力士・行司表現のある須恵器
岡山県瀬戸内市出土。

皇極天皇元年(642年)7月22日には、百済の使節、大佐(だいさ)の平智積(へいちしゃく)らを饗応し、宴会の余興として、健児(ちからひと)に命じて、同年4月8日に亡命していた百済王族 翹岐(ぎょうき)の前で相撲をとらせた、とある[7]

天武天皇十一年(682年)7月、九州の隼人が大勢きて国の特産品を献上し、朝庭大隅隼人と阿多の隼人が相撲をとり、大隅の隼人が勝った、とある[8]

持統天皇九年(695年)5月13日、大隅隼人を宴会をしてもてなした。5月21日。隼人が相撲を取るのを西のの木の下で観た、とある[9]。「相撲節会」を参照

奈良時代から平安時代にかけて、宮中行事の一つとして相撲節会が毎年7月頃に行われるようになる。毎年40人ほどの強者が近衛府により選抜され、宮中で天覧相撲をとった。最初の記録は天平6年(734年)のものであるが[10]、節会を統括する相撲司の初見は養老3年(719年)であることから、8世紀初頭に定着したものと思われる。相撲節会は当初は七夕の宮中行事の余興としての位置づけであったが、後に健児の制が始まると宮中警護人の選抜の意味を持つようになる[11]。時代が下るにしたがって相撲節会は重要な宮中行事となり、先例が積み重なるとともに華やかさを増した。しかし同時に、健児の選抜という本来の趣旨は次第に忘れられていった。12世紀に入ると律令制の衰退、都の政情不安定とともに相撲節会は滞るようになり、承安4年(1174年)を最後に廃絶となる[12][13]。「神事相撲」を参照

一方、神社における祭事として相撲をとる風習が生まれた。これを神事相撲という。1956年の書籍『日本相撲史』は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であり、これは一貫して現代になっても続いている、としている[14]
中世「武家相撲」を参照

相撲節会に求められていた実践的な意味での相撲は、組み打ちの鍛錬として、封建制を成立させた武士の下で広まった。これを武家相撲という。武士の棟梁となった源頼朝は特に相撲を好み、鎌倉を中心に相撲が盛んに行われた[15]。「土地相撲」を参照

続く室町幕府は、相撲の奨励には消極的であったが、戦国大名は熱心に相撲人の養成に力を注いだ。また、応仁の乱以降都落ちをした貴族とともに京都の相撲文化が地方に伝わり、民衆の間に相撲が定着、相撲を生業とするものが現れる。これを土地相撲、または「草相撲」という[16]
近世「勧進相撲」を参照江戸時代の勧進大相撲興行の図(1843年頃)

江戸時代に入ると武家相撲はその存在意義を失い、土地相撲が興行化して民衆一般に広がる。興行主はこれを神事相撲の「勧進」にことよせて勧進相撲と称し、また武家相撲も力士を大名の抱えとすることでその名残をとどめた[17]

江戸の爛熟期である明和安永期(1764年-1781年)には、急速に見世物として の性格が濃厚になり、盲人や女性の相撲が盛況をみせ、明和6年(1769年)の浅草寺の開帳では、30日間興行の予定の女相撲や盲人と女性による相撲が20日間も延長されるほどの人気を博した[18]。11代将軍徳川家斉の時代になると、将軍が観覧する「上覧相撲」がきっかけとなり庶民の娯楽としてさらに隆盛し、なかでも寛政3年(1791年)6月11日に行われた上覧相撲によって相撲熱は一気に高まった[1]。「勧進相撲」は神社仏閣の建立・修繕などの資金として寄進を勧めるための興行から、職業相撲としての営利的興行へと変化し、寛政年間には、第4代横綱谷風梶之助や第5代横綱小野川喜三郎雷電為右衛門といったスター力士たちが登場し、江戸相撲は黄金期を迎えた[1]天保4年(1833年)には勧進大相撲が一大歓楽地であった両国を定場所とした[19]
近代侍従と相撲を取る皇太子時代の昭和天皇(右)「大相撲」を参照

明治文明開化で相撲をはじめとする伝統芸能は軒並み危機に陥るが、明治天皇の天覧相撲が繰り返されるなどによりその命脈を保つ[20]。大正14年(1925年)には幕内最高優勝者に授与される天皇賜杯が下賜され、また東京相撲と大阪相撲が合併することにより日本相撲協会が誕生、勧進相撲は大相撲に一本化された。

平成に入って、日本ビーチ相撲連盟というアマチュアの組織が結成された。また、義務教育に武道必修化の必修科目として、相撲・剣道柔道の三種を基本として加味された。

2020年以降は新型コロナウイルス感染拡大により身体接触を伴うスポーツへの抵抗が高まり、各地の学校の部活動でもなるべく身体接触を避けたいという意向が示されていた。2021年10月15日に開幕した福井県中学校秋季新人競技大会で、相撲競技が2人しかエントリーしないという選手不足のため、過去16回で初の開催中止となった[21]
神事としての相撲
神事との関係性萬華城と剛天佑(2007年)奉納相撲(東庄町諏訪神社


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