相川勝六
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伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2022年3月)

日本政治家相川 勝六あいかわ かつろく
生年月日1891年12月6日
出生地佐賀県藤津郡嬉野村
(現:嬉野市
没年月日 (1973-10-03) 1973年10月3日(81歳没)
出身校東京帝国大学法科大学
(現:東京大学
前職国家公務員内務省警察官
弁護士
各県知事
所属政党自由民主党
称号法学士
第11代 厚生大臣
内閣小磯内閣
在任期間1944年7月22日 - 1945年4月7日
衆議院議員
選挙区宮崎県第1区
当選回数8回
在任期間1952年 - 1972年
官選第33代 愛媛県知事
在任期間1943年7月1日 - 1944年4月18日
官選第31代 愛知県知事
在任期間1941年3月26日 - 1942年6月9日
官選第31代 広島県知事
在任期間1939年9月5日 - 1941年3月26日
その他の職歴
官選第29代 宮崎県知事
1937年7月7日 - 1939年9月4日
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相川 勝六(あいかわ かつろく、1891年明治24年)12月6日 - 1973年(昭和48年)10月3日)は、日本官僚政治家弁護士佐賀県嬉野村(現:嬉野市)出身。東京帝国大学卒。宮崎広島愛知愛媛各県官選知事を歴任。大政翼賛会実践局長、厚生大臣衆議院議員目次

1 来歴

2 栄典

3 逸話

4 脚注

5 関連項目

来歴

1911年 
旧制鹿島中学校卒業

1912年 第二高等学校入学

1915年 第二高等学校卒業

1919年 東京帝国大学法科大学独法科卒業。内務省入り[1]千葉県[2]

1926年 徳島県労務課長から警視庁刑事部長に就任。神奈川県警察部長などを歴任。

1934年 内務省警保局保安課長となり第二次大本教弾圧などを指導。

1936年 潮恵之輔廣田内閣への入閣に反対した報復として、二・二六事件を口実に朝鮮総督府警察部警務局外事課長に左遷される。

1937年 宮崎県知事就任。「八紘之基柱」建設を推進。

1939年 広島県知事就任。部落会・町内会の結成。県主催紀元二千六百年奉祝博覧会開催。

1941年 愛知県知事就任。

1942年 大政翼賛会実践局長兼任。

1943年 愛媛県知事就任。四国地方行政協議会長兼任。

1944年 厚生次官就任。

1945年 小磯内閣の厚生大臣として労務行政を強化。

1946年 公職追放

1952年 衆議院議員(?1972年、宮崎1区、当選8回、自由民主党)自民党治安対策特別委員長。

栄典

1945年(昭和20年)2月15日 - 従三位[3]

逸話

海軍の演習時に警察関係者として出席したが、折しも強風で相川の帽子が飛ばされた。この際昭和天皇が、「帽子がないと様にならないぞ」と風に飛ばされた相川の帽子を持ってこさせている。

廣田内閣組閣においては、潮恵之輔の入閣に内務省内の有力革新官僚の一人として反対。このため同様に反対していた唐沢俊樹安倍源基と共に左遷されている。

官選の宮崎県知事・広島県知事・愛知県知事・愛媛県知事を務めている。宮崎県知事在任中には、高鍋に化学工業・日南に日本パルプ工業・小林と高鍋にアルコール工場を誘致し、県営で水力発電所を着工。愛知県知事に転任した際には、餞別を「相川厚生事業団」として引き揚げ漁民の託児所や福祉施設を広島に建設した。

脚注

[脚注の使い方]
^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 1頁。
^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、223頁
^ 『官報』第5603号「叙任及辞令」1945年9月14日。

関連項目

佐賀県出身の人物一覧

議会
先代:
山本粂吉 衆議院内閣委員長
1957年次代:
福永健司
公職
先代:
廣瀬久忠 厚生大臣
第11代:1945年次代:
岡田忠彦
官職
先代:
福本柳一 愛媛県知事
官選第33代:1943年-1944年次代:
雪沢千代治
先代:
児玉九一 愛知県知事
官選第31代:1941年-1942年次代:
雪沢千代治
先代:
飯沼一省 広島県知事
官選第31代:1939年-1941年次代:
吉永時次
先代:
三島誠也 宮崎県知事


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