相対主義
[Wikipedia|▼Menu]

相対主義(そうたいしゅぎ、: relativism、: Relativismus、: relativisme)は、経験事象に対する見方が、その他の経験事象に対する見方との相対的関係(is relative to)すなわち依存関係(is dependent on)においてしか客観的にはありえない、という考え方である。
概要

相対主義で重要なことは、ミュラー・ラウタ―が『ニーチェ 矛盾の哲学』において述べているような、他者の価値観を絶対化してしまうことなく、その価値観に対して自己の価値観をもって矛盾を生成して示して、相対化することであり、「即客体的理解」から「即主体的対峙」への契機となる。ある相対主義者[誰?]の主張によれば、人間は、感覚などの認識上のバイアス言語などの記号上のバイアスまたはその他の人々と共有する文化的バイアスのせいで、信念や振舞を自己の歴史的・文化的文脈においてしか理解できない。つまり、相対主義の主張とは、ある要素は特定のフレームワーク[要曖昧さ回避]ないし観点との相対的関係においてしか実在せず、そのフレームワーク[要曖昧さ回避]や立場は全ての人々において異なるという考え方である。反対に、歴史的・文化的文脈に依存せず、どのような観点から見ても必ずであるかあるいは正しい命題というものがあるという考え方は、絶対主義と呼ばれる。物の見方一般についてではなく、特定の主題について相対主義を主張する場合には、例えば文化相対主義のように特別な名前が付せられていることもある。英語で絶対主義(absolutism)の語が文書において使われたのは1753年だが、キリスト教神学の中で、神を無制約の万能の存在とみなす姿勢のこととして、である。その後に、1830年から政治学的意味で、君主を無規制の絶対君主とする姿勢となって出現している。これが日本人一般に馴染の意味合いである。これを基準として、1865年から、反対概念もしくは対立概念として、「相対主義」という語が英語では出現している。君主支配は憲法などによる規制下にある立憲君主にするべきだとするものである。絶対君主に対する立憲君主という語が一般的であるが、それが相対君主と呼ばれ得るものだと考えると理解が速い。この意味においては、人が民主主義にあればおのずと絶対主義でなく相対主義に立つとなる。

だが、この語における「相対」のニュアンスが、その後に、さらに別のニュアンスでの「相対」になって――ウォーフによる「言語相対性 」(linguistic relativity)という用語において――、1940年に使用された。諸言語は構成や価値判断が相互に固有であり、普遍/斉一ではない、ということである。この主張は言語の表層においてはもちろん妥当している。(他方、普遍だとしうるのは深層においてである。この言語相対性を主張する言語相対論と対立する側である言語普遍論において、普遍文法のチョムスキーが代表的存在である。)諸価値判断の間のこの相違は、ある言語を使用する者の価値判断が、その言語の価値判断によって規定されるとする相対主義の究極の観点にまでつながる。そしてここで、相対が、普遍の対となっており、絶対の対となるのではなくなった。絶対性=無制約支配性がなくなったのである。

その後の文化相対主義でも、言語相対論が言語についてなしたと同じように、文化間は価値判断が相違しているとする。だがここでは、絶対主義だけでなく普遍主義もなくなって、相対性を強調するだけの相対主義の極北に、文化相対主義はある。相対主義が、もはや先行した参照物に依存した様態にはなく、自立している。
定義

相対主義とは、経験ないし文化の諸要素やその見方が、その他の複数の要素や見方と相対的関係すなわち相互依存関係にあるという考え方である。例えば、背が高い人は、彼よりも背が低い人がいなければ想定しえない。逆に、背が低い人も、彼より背が高い人がいなければ想定しえない。このため、相対主義の前提に立てば、他者に全く依存しない絶対的に背が高い人は存在せず、背が高い人と背が低い人とは相互依存関係にあると言うことができる。

なお、しばしば、「文化や価値観は全て平等である」という平等主義や、「自己の文化や価値観を他人に押し付けてはならない」という寛容主義に相対主義という名前が付されることもあるが、ここではこれらの間を厳密に区別する。また、いくつかの事物が相互依存的に成り立っているという意味での相対性が、平等性、等価性または主観性を含意したり、あるいは反対に、絶対性が客観性と同義で用いられることもあるが、これらの間も以下では厳密に区別しておく。
相対主義と主観性

主観性は、相対主義にとって重要な論拠の一つである。ここで、主観性とは、事物の把握の仕方が、個々の主体に依存しているということを意味する。すなわち、相対主義の認識論的な根拠によれば、個々の主体によって把握された事象(いわゆる表象観念)は、個々の主体の感じ方や捉え方に依存しているので、それとの相対的関係においてしか存在しえない。

このような論証の仕方は、古代ギリシャソフィストにまで遡る。プロタゴラスは、ある人には風は温かく感じられ、別の人には冷たく感じられるので、風そのものは温かいのかそれとも冷たいのかという問いには答えがないと述べた[1]。このような見解は、「万物の尺度は人間である」という彼の有名な一節に凝縮されている。簡単に言えば判断基準は自分自身という人間なのである。万物の尺度を科学的で客観性をとる原理や観測ではなく、自分という人間の主観がものさしとなる感想や意見が、万物の尺度の一つであり、絶対的判断基準はなく、それぞれの人間の思いが判断基準だとするものである。人間には絶対的な共通の認識はないとするものである。相対主義と主観性/主体性はこうして相互に連関するが、そのとき、この連関の他方には絶対主義と客観性/客体性の連関がある、ということを承知しておくことで視界が開けよう。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:39 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef