.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}相原(あいばら) 四郎(しろう)
海軍大尉時代
生誕1879年10月2日
日本・愛媛県温泉郡高井村
相原 四郎(あいばら しろう[注 1]、1879年(明治12年)10月2日 - 1911年(明治44年)1月8日)は、日本の海軍軍人。
日本海軍の最初の搭乗員[1]であり、また日本初の航空事故犠牲者とする見解もある[2]。相原は仏海軍士官ル・プリウール、田中舘愛橘と協力して日本で最初のグライダー製作および飛行の成功に貢献し自らも搭乗した。この成功は日本における航空工学に則った機体飛行の最初の事例であった[3]。最終階級は海軍大尉。 現在の愛媛県松山市に生まれる。農業を営む父相原久米兵衛、母信の間に生まれた第四子で長男であった。松山中学在学中に父を失った相原は、海軍予備校として知られた攻玉社に転じ、1898年(明治31年)海軍兵学校に入校した[4]。海兵29期の同期生には米内光政などがいる。卒業席次は125名中89番であった[5]。1903年(明治36年)1月、少尉任官。 翌年には日露戦争開戦を迎え、相原は第21艇隊「第64号水雷艇」乗組み中尉として、第三回旅順港閉塞作戦に出動し、日本海海戦時は「音羽」乗組みであったとされる[4]。ただし、『極秘 明治37.8年海戦史』では作戦計画に21艇隊は含まれておらず[7]、第二軍の輸送艇隊の護衛に向かっている[8]。また日本海海戦時の配員表では第20艇隊「第64号水雷艇」乗組みとなっている[9]。 戦後の相原は水雷学校に入り、無線電信を専攻する。1909年(明治42年)9月には大尉に進級し、翌年同郷の岡本雪江と結婚した[4]。第一艦隊司令部附として無線電信について研究を進め、陸上仮設無線電信所の有効性を説いた報告書が残っている[10]。相原は研究をさらに進めるべく海軍大学校選科学生を志望していたが、航空術研究を目的とした選科学生[注 2]を命じられる。相原が航空関係に進むことになった理由として、和田秀穂は相原の同期生であった村瀬貞次郎
生涯
海軍将校
日本海軍潜水艦乗員として最初の殉職者の一人[6]となった佐久間勉は、相原の同期生である。
1909年当時相原は青山に居住していたが、近所にル・プリウール(英語版)が住んでいた。プリウールは仏海軍兵学校を首席で卒業し[14]、日本への関心からその赴任を望んだ人物であり、また航空に関心がありグライダーの製作を行っていた。相原とプリウールは相識の仲となり、グライダーの製作に取り掛かる。同年8月20日と推定される日に、二人は青山学院の校庭でグライダーの飛行実験を行ったが失敗した。8月28日には臨時軍用気球研究会が発足し、相原は小浜とともに委員を命じられた。この委員会は会長に長岡外史が就任し、委員には田中舘愛橘や日野熊蔵がおり、のちに徳川好敏や金子養三も加わっている。