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直隷派(ちょくれいは)は、中華民国時代における中国の軍閥である。直隷軍閥とも称する。1916年の袁世凱の死後、その北洋軍閥が分離して成立した。1920年から1924年には他派を破って北京政府の実権獲得に成功したものの、1926年からの中国国民党による北伐によって1928年に壊滅した。その名前は当初直隷派を率いていた馮国璋が直隷省出身だった事に因む。
直隷派の成立 (1916年 - 1918年)馮国璋
1916年6月の袁世凱の死によって、彼の率いていた北洋軍閥は求心力を失って分裂する。まずは国務総理として既に実権を握っていた段祺瑞率いる安徽派(皖系)が政権を担うが、袁世凱の後継として大総統に就任した黎元洪と府院の争いと呼ばれる権力闘争を始める。この時期、直隷派の馮国璋は南京の留守居役にあったため中央政治からは遠ざかっていたが、黎元洪が段祺瑞を牽制するために1916年10月30日に馮国璋を副大総統に任命する。この人事によって表舞台に立った彼はにわかに権力を意識し始める。
1917年7月に黎元洪が失脚すると、馮国璋が大総統代理に任命された。だが同年9月に孫文が広東軍政府を組織して中華民国からの独立を宣言すると、その対応で国論が二分する。国務総理の段祺瑞は武力征伐を主張し、大総統代理の馮国璋は武力行使に反対した。これが「和戦の争い」である。結局段祺瑞は、袁世凱死後の東北地方を纏め上げた張作霖率いる奉天派(奉系)と連合して南征を強行、さらに1918年の新国会(安福国会)での多数派工作にも成功して、馮国璋を大総統の地位から引きずり下ろした。
直隷派政権の確立 (1920年 - 1924年)曹?
1919年に直隷派の馮国璋が病死すると、直隷派はさらに保定派(曹?派)と洛陽派(呉佩孚派)に分かれた。彼等は馮国璋よりも権力に対して貪欲であり、他派との抗争に打ち勝って政権を握る。その政権は前後期に分ける事ができ、前期は奉天派との連立政権であり、後期は単独政権であった。 1918年に直隷派が政権から降ろされて以降政権を担っていた段祺瑞だが、余りに日本寄りの政策を展開したために、五四運動など反日感情の高まりと共にその声望は低下していく。そこに目を付けた曹?ら直隷派はイギリス・アメリカの後押しを受けて、奉天派の張作霖と同盟して、1920年7月に直皖戦争(安直戦争)で段祺瑞率いる安徽派を破り政権を手中に収める。 だが、連立政権を樹立するには直隷派(曹?・呉佩孚)も奉天派(張作霖)も共に権力欲が強過ぎた。結局政権の主導権をどちらが握るかで内部対立し、1922年4月の第一次奉直戦争で直隷派が奉天派を破って直隷派単独政権を樹立する。 北京政府の実権は直隷派が握る事にはなったが、だが保定派の曹?の政治的野心は「実権」という黒子ではなく、「大総統」という表舞台を求めていた。
直隷派・奉天派 連立政権 (1920年 - 1922年)
直隷派 単独政権 (1922年 - 1924年)