目黒競馬場
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目黒競馬場
施設情報
所在地東京府東京市目黒区
(開場時は東京府荏原郡目黒村
(現在の東京都目黒区下目黒4-6丁目)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度37分51秒 東経139度42分11秒 / 北緯35.63083度 東経139.70306度 / 35.63083; 139.70306座標: 北緯35度37分51秒 東経139度42分11秒 / 北緯35.63083度 東経139.70306度 / 35.63083; 139.70306
開場1907年
閉場1933年
所有者東京馬匹改良会社→東京競馬倶楽部
管理・運用者日本競馬会東京競馬倶楽部
コース
周回右回り 1マイル
馬場土のち芝
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目黒競馬場平面図 スタンドは目黒通りを背にしている。目黒通りを渡った向かい側に厩舎がある。東京競馬倶楽部発行『東京競馬会及東京競馬倶楽部史』1941年より第1回東京優駿大競走(日本ダービー)

目黒競馬場(めぐろけいばじょう)は、1907年明治40年)から1933年昭和8年)まで、現在の東京都目黒区下目黒に存在した1周1マイルの競馬場。1933年の閉鎖と同時に、現在の東京競馬場府中市)に移転された。1907年創設の日本競馬会(1936年設立の日本競馬会とは同名であるが別団体)が設立したが、1910年に東京競馬倶楽部に経営は移った。山手線目黒駅東急目黒線不動前駅(当時は目黒蒲田電鉄、1923年以降は目蒲線)、東急東横線祐天寺駅(当時は東京横浜電鉄)の3駅とほぼ等距離で、1km余り離れた場所に位置していた。
概要

目黒競馬場は1907年(明治40年)に東京府荏原郡目黒村(後の目黒町、現在の目黒区)に開設された馬場の1周が1マイル、総面積64,580(約21万m2。現在の東京競馬場の約1/3の面積)の競馬場である。1907年12月、馬券黙許時代の到来で日本競馬会によって開設された。1908年には馬券発売は再禁止され、東京近郊の4つの競馬会(目黒の日本競馬会・池上の東京競馬会・川崎競馬倶楽部・板橋の東京ジョッケークラブ)が合併して東京競馬倶楽部に移行。東京競馬倶楽部は目黒競馬場を使用して競馬を行った。同年春季からはそれまで池上競馬場で施行されていた帝室御賞典の開催が始まり、翌1911年からは当時の選手権競走ともいえる優勝内国産馬連合競走が創設された。

開場からわずか1年で馬券発売が再禁止されて目黒競馬場は東京競馬倶楽部を主催として競馬を行うようになったが馬券を売れない競馬は不人気で競馬場は閑散としたという。しかし、1914年(大正3年)勝馬投票券(払い戻しは景品券)の実施、1923年(大正12年)には競馬法(旧競馬法)の制定で再び現金で払い戻す馬券(名称は勝馬投票券のまま)が売れるようになり客足も増えていった。

1932年(昭和7年)に日本の近代競馬の基幹競走となる東京優駿大競走(日本ダービー)が創設され、記念すべき第1回はこの目黒の地で開催されるなど観客席は満場となる人気を集めていき、競馬開催の規模も拡大していったが、この頃には近隣の宅地化進展によって敷地を広げることや施設の拡充が難しくなっていた。敷地総面積が6万坪あまりしかない目黒競馬場はすでに限界まで拡張されたがそれでも尚、競馬人気の前に手狭になっており、その上、敷地の大部分が借地であり地主からは地代の値上げを要求され、町議会議員からは町の発展を妨げると非難をされるようになるなど、目黒競馬場は存続自体が難しい状況に追い込まれてゆく。

果たして、これら諸問題を解決するためには自前の広大な土地への移転を行うしか方法はないと競馬場側は決断、府中に土地を求めた。1933年(昭和8年)春季の開催を最後に目黒競馬場は廃止され、その役割は同年秋に竣工となった北多摩郡府中町(現: 府中市)の東京競馬場に移転した。
日本競馬会時代

ここでいう日本競馬会は、1907年から1910年まで存続した目黒競馬場だけの競馬会である。1936年(昭和11年)に成立した全国的な競馬施行体である日本競馬会 (日本中央競馬会の元となった組織)とは同名だが別団体である。「日本競馬会#1907年創設の日本競馬会」も参照

1906年(明治39年)、馬券発売が黙許されることになり、従来からの横浜競馬場に加え池上競馬場川崎競馬場が企画されていく。1906年(明治39年)12月に開場した池上競馬場が大成功を収めて多大な利益を上げたのを見て、全国的に競馬場の建設ブームが起きる。東京では池上に続き、目黒や板橋に競馬場が作られた。詳細は「競馬の歴史 (日本)#馬券黙許」および「勝馬投票券#居留地競馬?競馬法施行前」を参照「川崎競馬場#初代・川崎競馬場について」も参照

1907年(明治40年)、競馬施行団体として日本競馬会、競馬場の建設や設備保持を行う会社として東京馬匹改良会社が設立された[1]。公益法人である競馬会は利益を自由に処分できないので、競馬会と競馬場所有会社を分けて競馬場の所有会社に甚だしく高額な使用料を払う形で自由に処分できる利益を手にしたのである[2]。もちろん日本競馬会と東京馬匹改良会社は建前は別団体でも実質は表裏一帯の関係である[1]

日本競馬会は松平容大関直彦安田伊左衛門、松尾清次郎、中山孝一といった人々が発起人になり、会長は岡田治衛武ら、東京馬匹改良会社の創立委員長は園田実徳[1]。しかし、実質的には営利企業の東京馬匹改良会社の園田が経営の実態をにぎり、非営利競馬法人団体である日本競馬会は認可を受けるための表看板に過ぎなかったという[3]。「安田伊左衛門#競馬への功績」も参照

土地は約65,000、しかし、その中で借地は53,000坪に及んだ。借地が8割を占めたが東京馬匹改良会社は一般的な借地料の4倍の坪当たりひと月ごとに2銭を払ったので借地はスムースに進んだという。また、競馬場に土地を貸した地主が作業員として働けば高額の報酬も払ったという[4]

完成した目黒競馬場の馬場は長円形の馬場だが、先行する横浜競馬場や池上競馬場の馬場がかまぼこ型の馬場であったのに対して見慣れぬ形の馬場には違和感もあったという[5]。ただし、池上競馬場以降、現代にいたるまで長円形の馬場のほうが普通で、横浜競馬場や池上競馬場のようなかまぼこ型の馬場の方が珍しい。施設は馬見所(スタンド)が1号館(1等席)、2号館(2等席)の2棟。1号館は玉座や貴賓席も設けた施設で3階建て、建坪500坪、2号館は900坪である[1]

設立時にはパドックは無く出走前の馬の引き回しは馬見所(メインスタンド)前で行っていたが[6]、明治41年5月に馬政局長官通達で下見所(パドック)の設置が義務付られ、出走前の牽運動が義務になったので[7]、1号館と2号館の裏の中間にパドックを設けた[6]

目黒競馬場の初回開催は1907年(明治40年)12月7,8,14,15日の4日間、いずれも土曜・日曜である。寒い日だったにもかかわらず大勢の入場者が入り、大清帝国(現・中国)の皇族も姿を見せている。記念すべき初日の第一レースは内国産馬6頭立、距離は3/4マイル(約1200メートル)で行われ、シラギク号が勝ち、タイムは1分35秒80で一着賞金500円を得る。第二レースは豪州産新馬のレースで9頭立、距離は3/4マイル。勝ったイケヅキ号のタイムは1分30秒で賞金500円を得た。以後、初日には全部で11レースが行われ、内国産馬のレースと外国産馬のレースは分けて行われ、距離も3/4マイルから1と1/4マイル(≒2000m)で行われ、最も多いのが1マイル(≒1600m)のレースである。賞金は1着が500円もしくは600円、2着は125円から150円、3着には75円が払われた[8]。二日目には竹田宮、朝香宮が訪れている[9]。12月15日の初回開催4日目には入場者は非常に多く場内は雑踏と化し、2号館に至ってはあまりの混雑で階段の上り下りもままならないほどだったという[10]

1907年(明治40年)12月7日、目黒競馬場開設初日の第5競走でベンテン号はレース途中に足を怪我する。明らかに治る見込みのない怪我で、ベンテン号はその場で銃殺された。横浜競馬場から指導に来ていた外国人による処置である。馬の足を縛り間近からピストルで2発、眉間に打ち込み観客の目の前で馬場は血に染まったという。この光景を見ていた観客の中には婦人客も多く、また清の皇族もいたという。東京朝日新聞は、馬を苦しみから救うために殺処分すること自体は仕方ないとしても、大勢の観客の目の前で銃殺が行われたことを非行であると非難している[11]


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