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やノートページでの議論にご協力ください。目黒のさんま(めぐろのさんま)は古典落語[1]の噺の一つである。低級な下魚として扱われていたさんまを、庶民的な流儀で無造作に調理すると美味だが、丁寧に調理すると不味い、という滑稽噺である。落語界で秋の噺として知られるが、成立時期は不明である。3代目三遊亭金馬が得意とした演目である。 ある殿様が目黒まで遠乗り(あるいは鷹狩)に出る。供の者が弁当を忘れたために腹を空かせている殿様一同のもとにうまそうな匂いが漂ってくる。殿様が匂いの元を尋ねると家来が、これはさんまというものを焼く匂いだがさんまは庶民の食べる下魚なので殿のお口に合うものではないと答える。しかし空腹に耐えかねた殿様はさんまを持ってくるよう命じ、家来は農家の者が食べようとしていたさんまを頼んでもらってくる。直接炭火で焼いた「隠亡焼き」のさんまは黒く焦げて脂がしたたっているが、初めてさんまを食べた殿様はそのうまさに大喜びする。 さんまのうまさが忘れられず、殿様はある日さんまを出すよう家来に申しつける。庶民の魚であるさんまは屋敷にはないので家来は慌てて出て行き、日本橋の魚河岸でさんまを買い求める。しかし調理の段になると、焼くと脂が多く出て体に悪いということで、蒸籠で蒸して脂をすっかり抜き、骨がのどに刺さるといけないと骨を一本一本抜くと、身姿が崩れた姿を椀にして出した。殿様が食べてみると目黒で食べたものとは比較にならぬまずさ。どこで求めたさんまかと尋ねると家来は「日本橋魚河岸で求めてまいりました」答える。殿様はしたり顔で「ううむ、それはいかん。さんまは目黒に限る」。 海から遠い目黒で捕った魚が美味いと信じて断言する、というくだりが落ちである。世俗に無知な殿さまを風刺する話でもある。 噺の後半は、最初に目黒で食べてきた殿様ではなく、その美味しさを吹聴された他の殿様達のうちの1人が、されば余も、と所望するがやはり台なしな椀物を供されて、最初の殿様に苦情を申し立てて落ちの問答に至る流れもあるが、現在ほとんど演じられていない。 この噺は作者不明の古典であり、現在演じられている内容から背景を特定することは困難である。当時の「目黒」は現在よりもさらに広範囲を指していたが、事物を演者が好きに折り込んだため、あたかも実話由来の噺と思われており、地元の観光素材などに用いられている。 江戸時代、将軍の広大な鷹狩場は複数あり、単に「御場(ごじょう)」とも呼ばれ、その一つが「目黒筋」である(旧称:品川)。文化2年(1805年)の「目黒筋御場絵図」[2]によれば「目黒筋御場」の範囲は、現在の大田区西馬込などにあたる馬込、現在の世田谷区ほぼ全域および狛江市にあたる世田谷、麻布、品川、駒場など広い範囲が含まれる。 江戸期に目黒筋鷹狩場の番人の屋敷であった場所は、現在鷹番と呼ばれている。 鷹狩場近辺に徳川幕府の庇護下にあって繁栄した目黒不動があったが、鷹狩から目黒不動参詣のあと近辺の茶屋で休息したといわれており、その話が成立のヒントとなった、とする説を地元が採用している。この茶屋は百姓の彦四郎が開いたとされ、将軍家光が彦四郎の人柄を愛して「爺、爺」と呼びかけたことから爺々が茶屋と称された。この爺々が茶屋は歌川広重の「名所江戸百選」で題材とされている[3]。 爺々が茶屋の場所に以下の2説がある。 主人公の殿様は赤井御門守、あるいは単に「然る御大名」とだけ描いて名前を付さない演出も多く、実在の殿様とは関係ない。 柳家禽語楼は、「殿様」を出雲国(出雲の国なので「雲州」とも呼ばれる)、松江藩藩主・松平家(松平出羽守)の当主[4]としており、以降これを踏襲する者が多い。何代目であるか特定していないが、寛永年間の噺としていることから松平直政とも推察できる。 林家彦六(稲荷町)は殿様を徳川将軍家とした。殿さまが後で食べるサンマを江戸の日本橋で水揚げされたものとせず、徳川御三家の一つである水戸で水揚げされたものとする大きな話に仕立てている。
あらすじ
背景
鷹狩場
現在の渋谷区
林百助
現在の目黒区
目黒区内の、目黒駅と恵比寿駅の中間でポーランド大使館とアルジェリア大使館の近くに「茶屋坂」があり、この近辺に爺々が茶屋があったと伝聞され、目黒区教育委員会が「茶屋坂と爺々が茶屋」の告知板を設置している。同地と目黒清掃工場の間に茶屋坂街かど公園がある。