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目薬(めぐすり)とは「点眼薬」「点眼液」の通称で、目に直接投与する液状の薬である(薬機法で医薬品[注釈 1]に分類されている)。市販されているものと薬局で処方箋なしで買えるもの、医師から処方されるものがある。日本薬局方においては「点眼剤」として規定されている[1]。
概要点眼している人
さまざまな目的の目薬がある。たとえば、目の乾燥状態を改善させるためのもの[2]、炎症を抑えるためのもの(眼科手術の後にも用いられる)、緑内障の治療のために眼圧を下げるためのもの[3]、目脂を抑えるもの、目のかゆみ解消のためのもの、ビタミンB12を配合した眼疲労解消のためのもの[4]、三叉神経痛の治療のためのもの(主たる治療であるビタミンB12の注射に加えて処方される主にビタミンB12の点眼薬)、近視の進行を抑えるためのもの[5] などがある。
目薬は刺激を抑えるため、多くは涙とほぼ同じpH、浸透圧に調整されている。また無菌的に製造され、一回使い切りのものを除き無菌性を保つためほとんどの製品は防腐剤が加えられている[注釈 2]。開栓後は早めに使い切った方がよい(1ヶ月程度)。
有効成分が水溶性で、かつ薬液中で安定する場合には水性点眼剤、水に難溶であるが安定する場合は懸濁性点眼剤、水に難溶で、かつ薬液中で不安定な場合には油性点眼剤、水溶性であるが薬液中で不安定な場合には、使用の都度粉末または錠剤を溶解液に溶解して点眼する用時溶解点眼剤として製造される。眼科領域で使用されるうち、点眼剤以外の剤形としては眼軟膏剤がある。これは油性点眼剤と同様に、主に水に難溶で不安定な場合に用いられるが、それ以外の物性でも軟膏が採られることがある[7]。
点眼薬は動詞(述語)と組み合わせる場合は「目薬をさす(差す、点す)」と表現する。 古代エジプトで紀元前1553年から1550年の間に書かれた、多数の薬の処方が書かれたパピルスが、1872年にドイツのエジプト学者であるゲオルク・エーベルスによって発見され[8]、それは現在では「エーベルス・パピルス」と呼ばれており、そこには次のような目薬の処方も書かれている[8]。眼が乾燥しているなら(中略)、黄カエルを解体しそのgalをカード(乳を凝固させたもの)と混ぜて眼に塗るべし。-アッシリア・バビロニアの眼科処方より[8] つまり目薬の処方も書かれた、紀元前16世紀の古代エジプトのパピルスが見つかったが、そこに書かれている目薬処方というのは、さらに時代をさかのぼるであろう古代アッシリア・古代バビロニアの眼科処方だということになる。 日本では1543年(室町時代)に点眼薬の原型となる清眼膏『霊薬 善光寺 雲切目薬』が笠原十兵衛薬局から日本で初めてとなる『目薬』を発売開始。これは二枚貝の片方に軟膏のような薬剤を入れ、もう片方を使い水で薄めて目につける形式のものだった。 江戸時代に入り18世紀に、岸田吟香はヘボンから目薬調剤の秘伝を教わり、硫酸亜鉛溶液「精奇水」を発売した[9]。これは小さな陶器製の入れ物に薬液を入れたものであった。 明治に入り、田口參天堂(現・参天製薬)が1899年に点眼方式の目薬を初めて開発し「大學目藥」として発売する。当初は綿棒に薬液を染み込ませ垂らして点眼していたが、後に瓶入りの薬液をスポイトで吸い取り点眼する方法となった。しかし、これらの方法は適量の点眼に向いておらず不衛生である点が問題となっていた。 1931年、信天堂山田安民薬房(現・ロート製薬)が両口式点眼瓶を発明。瓶の上部にゴム製のピストンを取り付け、目に適量を垂らすことが可能になり衛生面の問題も解決。ロート目薬(1909年発売)はこの発明により一躍ヒット商品となるが、大東亜戦争の激化によりゴムが軍事物資として徴用されたことから両口式点眼瓶は姿を消し瓶の底を指で弾いて点眼する一口叩き式点眼瓶に取って代わられた。
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