盧山初雄
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ろうやま はつお
盧山 初雄
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生誕 (1948-03-31)
1948年3月31日(76歳)
埼玉県行田市谷郷
国籍 日本1982年に取得[1]
職業武道家
団体極真空手道連盟 極真館
流派極真空手
肩書き会長・範士
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盧初夫(盧山初雄)
各種表記
ハングル:???
漢字:盧初雄
発音:ノ・チョウン
日本語読み:ろ はつお
ローマ字:Noh Cho Woong
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盧山 初雄(ろうやま はつお、帰化名:梅原 初雄〈うめはら はつお〉、民族名:盧 初雄〈ろ・はつお/韓国語読みではノ・チョウン、: ???/北朝鮮語読みではロ・チョウン、: ???〉[注釈 1][2]1948年昭和23年)3月31日 - )は、埼玉県出身の武道家極真空手太気拳)。極真空手道連盟 極真館会長。極真館空手道・範士九段。太氣至誠拳法・錬士七段。

極真空手界を代表する名空手家の一人で、外国人初の全日本空手道選手権大会王者(当時)。大山倍達松井章圭と共に日本における極真空手道の普及に貢献した。
来歴

埼玉県行田市大字谷郷出身。1963年(昭和38年)の高校1年の秋に大山道場へ入門する。1964年(昭和39年)4月に大山道場は財団法人極真奨学会を冠し、国際空手道連盟 極真会館に刷新された。本部道場が開設されてから1967年(昭和42年)に盧山は本部指導員に就任し、指導にあたっていた。しかし、ヤン・カレンバッハとの対決で敗北した事や、ある事件[注釈 2]が原因で禁足[注釈 3]処分を受け[3]、一時期、極真会館を離れた。その後は嵐五郎のリングネームでキックボクシングのリングにも上がったり、大山倍達と交流のあった澤井健一から中国拳法である意拳の流れを汲む太気拳の指導を受けたりしていた。再び空手の修行に戻ったのは中村日出夫空手道拳道会総師)の門弟となった時であった。中村の門下時代に共に修行した倉本成春とは、後に義兄弟の契りを交わすほど、親交を深めている。

1973年(昭和48年)に極真会館への復帰を許された[3]。そして、復帰後初めてとなる第5回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に出場した。二宮城光佐藤勝昭らを降して決勝戦へ進出して、対戦相手は山崎照朝であった。結果は4対1の判定で盧山が初優勝を遂げた。この試合は、大山倍達、大山茂郷田勇三他極真関係者、各種マスコミもこれぞ極真空手の精華と絶賛し、「完成された心技の激突が大観衆に勝敗の行方を忘れさせ、深い感動の世界に酔わせた」と、極真史上に残る名勝負として語り継がれている[4][5][6]

1974年(昭和49年)の第6回全日本選手権では準決勝で東孝に惜敗し、3位入賞となったが翌年の第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会の代表に選出された。他の代表選手がアメリカ遠征に参加する中で盧山は日本に残り、稽古を続け、第1回全世界選手権に備えた。


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