盧基南
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盧基南
カトリックソウル教区大司教

大主教区ソウル
着座1962年12月20日
離任1967年3月23日
聖職
司祭叙階1930年10月26日
司教叙階1942年12月20日
個人情報
出生1902年1月22日
大韓帝国平安南道中和郡
死去1984年6月25日
韓国ソウル特別市
紋章
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盧基南
各種表記
ハングル:???
漢字:盧基南
発音:ノ・ギナム
日本語読み:ろ・きなん
ローマ字:Ro Ki-nam
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盧 基南(ノ・ギナム、韓国語:???、1902年1月22日 - 1984年6月25日)は、日本統治時代の朝鮮及び大韓民国カトリック聖職者。洗礼名はパウロ。初の韓国人司教であり[1]、ソウル教区の初代大司教。長年にわたり韓国のカトリック教会を指導した。
生涯
生い立ちと初期の活動

盧基南は1902年1月22日大韓帝国平安南道中和郡に、信仰の篤いカトリック信者である盧成九の11人目の子として生まれた。その後 YMCAで運営する青年学校に通っている途中、龍山小神学校に入学した。龍山小神学校では、英語担当教師である張勉(のち大韓民国副大統領・首相)に出会っている。1917年、フランス人神父達が運営する 12年課程の神学校に入学した。1930年、神学校を卒業して司祭叙階され、鐘?聖堂(現在の明洞聖堂)助任司祭を務めた。そのかたわら啓聖普通学校(現在の啓聖初等学校)の運営を担当し、ここで校長を務めていた張勉と再会している。
司教叙階

盧基南は、鐘?聖堂助任司祭を12年間務めた。日中戦争勃発後、教会に対する日本の圧迫と同化政策が強められたが、彼は適切に対応つつ、教会保護に努めた。ただし、当時の行動についてのちに批判がある(#「親日派」参照)。創氏改名により名乗った日本式の名前は「岡本鉄治」である。

日本が皇国化の一環として外国人教区長を日本人教区長で置き換えようと計画すると、当時京城教区長であったフランス人のアドリエン・ラリボー司教は辞任を決意した。盧基南は元司教の秘密推薦により、教区司祭を経て1942年11月10日、京城教区長に任命され、12月20日にコルバサ(Colbasa)の名義司教に叙階された。韓国人としては最初の司教叙階だった。
教会再建活動

1945年、朝鮮が日本の統治から解放されると、カトリック教会再建のために働いた。特に韓国カトリック教会の位階制の設定に尽力している。

モスクワの三相協議に反発した金九によって結成された「信託統治反対国民総動員委員会」の委員になった[2]。龍山小神学校時代の恩師でもある張勉を探して政界入りを働きかけたのも盧基南である。

1948年5月から1948年8月まで駐在の司祭の辞任で空席だった大邱教区長も兼任している。
大司教任命

韓国カトリック教会は、1962年12月20日に自立教会と認められた。京城教区はソウル大司教区に昇格し、盧基南司教が大司教に任命された。大司教就任後は韓国カトリック司教会議を設定するなど、韓国におけるカトリック教会の安定に努力した。

1963年には大韓民国国民勳章を授与された。1965年2月にイタリア文化勳章を授与され、その年の12月には当時創立された韓国宗教人協議会会長に選出されたりした。1967年3月23日にソウル大司教区のソウル大司教職を辞任し、引退を宣言。安養の村に移住した。

1984年3月13日高麗青磁献納委員会顧問に委嘱された。5月の韓国カトリック教会創設200周年では、教皇ヨハネ・パウロ2世を迎えて朝鮮の殉教者103名の列聖式を司式した。

1984年6月25日、81才で老衰により死去した。
活動と論争

日本統治下末期から韓国独立後まで、長期間にわたって教会の指導者を務めた韓国カトリック界の大物である。「盧基南がいない韓国カトリック教会など想像することができない」とも言われる。しかし、日本統治時代の行動は「親日派」と批判されることがあり、また第二次世界大戦後には反共の立場から政治にも関わったことから「政治司祭」という評価もある。
「親日派」

日本統治時代末期に、鐘?大聖堂助任司祭、京城教区長かつ朝鮮人司教であった盧基南は、日本の植民地支配や太平洋戦争に協力した(「親日派」)という疑惑が提起されている。たとえば、日本統治時代のカトリック教会の「親日行為」を告発した 『かむことができなかった舌』(2008年)では、盧基南を代表的な問題的人物に数えた[3]。これに対して、積極的な親日行為ではなく、単純に韓国カトリック教会代表として仕方ない行動だったという反論が出されている。

1938年に結成された国民精神総動員朝鮮連盟にカトリック京城教区が参加した時、張勉とともに連盟の業務を担当した。京城教区は聖職者と信徒たちに朝夕で日本軍将兵のための祈祷をし、かつ戦争勝利のためのミサを捧げるようにしたが[4]、教区の行為を主催、または援助したという疑惑が提起された。

1940年には皇紀2600年奉祝式とともに国民総力天主教京城教区連盟(ko:?????????????)を結成して盧基南は理事長に選任された[5]


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