益荒雄広生
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益荒雄 広生


基礎情報
四股名手島 広生 → 益荒雄 広生 → 手島 広生 → 益荒雄 広生 → 益荒雄 宏夫
本名手島 広生
愛称白いウルフ[2]
生年月日 (1961-06-27) 1961年6月27日(62歳)
出身福岡県田川郡糸田町
身長188cm
体重127kg
BMI35.93
所属部屋押尾川部屋
得意技右四つ、寄り、下手投げ
成績
現在の番付引退
最高位西関脇
生涯戦歴387勝329敗86休(68場所)
幕内戦歴111勝125敗64休(20場所)
優勝十両優勝5回
殊勲賞2回
敢闘賞2回
技能賞1回
データ
初土俵1979年3月場所[1]
入幕1985年9月場所[1]
引退1990年7月場所[1]
引退後年寄・12代阿武松
他の活動日本相撲協会理事(1期)
2018年3月 - 2019年9月
備考
金星2個(双羽黒1個、北勝海1個)
2019年9月26日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

益荒雄 広生(ますらお ひろお、1961年6月27日 - )は、福岡県田川郡糸田町出身で押尾川部屋17代時代)に所属していた元大相撲力士。最高位は西関脇1987年7月場所)。現役時代の体格は188cm、127kg。本名は手島 広生(てしま ひろお)。得意手は右四つ、寄り、下手投げ。血液型はB型。夫人は、元プロゴルファーの奥村久子[1]
来歴
角界入り

元々は兄と同じ警察官を志望していたが、押尾川親方(元大関大麒麟)に説得されて地元の飯塚高等学校を2年生終了の時点で中退して押尾川部屋に入門し、1979年3月場所において17歳で初土俵を踏んだ。後の横綱双羽黒北勝海らと同期である。当初の四股名は本名の「手島」であったが、読みは「てじま」と濁っていた。1980年9月場所前の、澤田一矢らの「三筆工房」による部屋機関紙『押尾川部屋』(年3回発行)の第7号では「思い切りのいい頭からの立ち合いと、得意の右四つで攻め込むのが自分の型。腕の力に頼り過ぎるのを反省、足腰をさらに鍛えます」と答えている[3]。新弟子時代から午前2時に起きて相撲教習所で稽古に励み、同様の稽古を行う寺尾琴ヶ梅と共に鍛え合ったという異常なほどの稽古熱心さで実力を伸ばし[4]、1983年7月場所に22歳で新十両へ昇進し、同時に「益荒雄」と四股名を改める。四股名は「剛勇な男子=益荒男」という意味であり、故郷の糸田町から贈られた化粧廻しは「玄界灘の荒波と旭日、日本一の槍」という勇壮なデザインであった[3]。その後は一時「手島」の名に戻していた時期もあったが、1985年3月場所において「益荒雄」に再改名してからは引退までそのまま通した。同年9月場所に24歳で新入幕を果たしたものの、しばらくは幕内と十両を往復する状況が続いた。
「白いウルフ」

1986年11月場所において4回目の入幕を果たすと、差し身の鋭い速攻相撲を武器に活躍し、その11月場所で西前頭13枚目の位置で11勝4敗の好成績を挙げて初の敢闘賞を獲得し、続く1987年1月場所でも東前頭4枚目の位置で横綱・双羽黒を破る金星を挙げて8勝7敗と勝ち越して初の技能賞を獲得した。初の三役となる東小結に昇進した1987年3月場所では、2横綱(千代の富士・双羽黒)・4大関(北天佑大乃国朝潮若嶋津)を破る大活躍で「益荒雄旋風」を巻き起こした[1]。一時は優勝も期待されたが終盤5連敗し、最終的には9勝6敗の成績で終えたものの初の殊勲賞を獲得した。後に益荒雄の弟子となった阿武咲2017年9月場所の優勝争いに加わった際には、益荒雄と同時代を幕内で過ごした逆鉾(15代井筒)が相撲雑誌のコラムで「あのときは益荒雄旋風白いウルフと言われましたが、阿武咲も一敗で中日まで突っ走りました。つくづく師弟というのはどこかでつながっているんだなと思います」としみじみ語っている[5]

この時期には、横綱・千代の富士のニックネーム「ウルフ」になぞらえて一般からの公募により付けられた「白いウルフ」というニックネームでも知られるようになった[1]。「白」は益荒雄が千代の富士より色白だったことに由来する。また、益荒雄が白星を挙げると地元である糸田町で花火が打ち上げられるようになり、テレホンカードもつくられ、それまで炭鉱不況、糸田線廃止と暗い話題ばかりだった糸田町に湧きあがった益荒雄の人気はますます過熱していった[3]。東小結に番付を据え置かれた1987年5月場所でも2横綱(千代の富士・双羽黒)・2大関(朝潮・若嶋津)を破り、9日目には西関脇旭富士に勝利し、10日目には大関取りが懸かった東関脇の小錦を2度突っ掛けた後に立合い一閃の蹴手繰りで破るという大活躍を見せて10勝5敗の成績を挙げ、4場所連続での三賞受賞となる2回目の殊勲賞を獲得した。続く7月場所では自己最高位となる西関脇に昇進したものの、周囲の期待から大きくかけ離れた4勝11敗の成績に終わった。

1987年9月場所で大乃国に寄り倒しで敗れた際に右膝の靱帯を痛めて途中休場し、この場所から怪我との戦いが続いた。翌11月場所は公傷が認められ、1988年1月場所において再起して2場所連続して9勝6敗の成績を挙げたものの、西前頭筆頭の位置で迎えた同年5月場所において小錦に押し倒しで敗れた際に再び右膝の靱帯を痛めて途中休場し、強行出場してさらに故障箇所を悪化させたために、以後は勢いも下降してしまった。その後は1989年3月場所に2回目の敢闘賞を獲得したものの、三役への復帰は果たせず、十両で大敗を喫して幕下陥落が濃厚となった1990年7月場所を最後に29歳で引退した。引退後は寺尾が所有する年寄名跡を借りて年寄・錣山を襲名して押尾川部屋の部屋付き親方となった。
引退後、独立

親方となってから自ら部屋を持ちたいという思いが強くなり、一門外の元小結・大晃[6]から名跡を買い、1992年9月に年寄・12代阿武松を襲名した。独立の意志や一門外からの年寄名跡取得については、師匠である押尾川に何の相談もなく行っていたため、師匠の逆鱗に触れてしまい事実上破門という憂き目に遭ったものの、同じ二所ノ関一門の大鵬親方(元横綱・大鵬)から助け舟を受けて大鵬部屋へと移籍して大鵬部屋の部屋付き親方となった。1994年10月には大鵬部屋から分家独立して阿武松部屋を創設した。

2010年1月に行われた日本相撲協会理事選では、立候補した貴乃花親方(元横綱・貴乃花)を支持したとの理由により、事実上、二所ノ関一門を破門された。この影響で1999年5月場所から約10年間にわたって務めてきた審判委員の役職からも退いた。2010年に発覚した大相撲野球賭博問題では、阿武松部屋から多数の関与力士を出し、さらに部屋で行われた賭博開帳の関与者4人が逮捕された責任を問われ、委員から平年寄への2階級降格と10年間昇格見送りの処分を受けたが、実際には2014年の役員改選と同時に行われた新たな職務分掌で委員に再昇格している。
日本相撲協会理事として

2018年2月1日、相撲協会理事選に貴乃花一門から立候補し、同月2日、理事に初当選した。同選挙では一門の総帥である貴乃花が落選しており、阿武松は「仕事をさせていただく可能性ができたので相撲協会の一員として、ファンの皆さんに愛される、そして活力ある組織にしたい」と、事実上の所信表明を終始、引き締まった表情で口にした[7]

この役員改選による新たな職務分掌では審判部長(ドーピング防止委員長)、新弟子検査担当という要職を与えられた。これは八角理事長(元横綱・北勝海)の再選に賛同し、一門の総帥であり渦中の人物である貴乃花と距離を置いたことからなる抜擢と見る向きもある[8]。審判部長として初めて臨んだ同年5月場所は栃ノ心の大関昇進を賭ける場所と重なり、千秋楽に八角理事長へ昇進の可否を審議する臨時理事会の開催を要請するという大事に携わった[9]


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