盆栽
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一位、銘「謙信峠」。上杉謙信伝承樹。樹齢約800年。

盆栽(ぼんさい)は、広義(原義)では鉢植えをいうが、一般的には狭義で花盆などの器物に草木を栽植して樹姿を整えて盆中に景を表現するもの[1]剪定針金掛け等を施しての成長を抑制して整え、盆型の鉢植えで栽培されたものをいう[2]日本国外でも、日本語の発音を基にした「BONSAI」で通じることが多い[3]
特徴

盆栽の目的は自然の風景を、植木鉢の中に切り取って作り出すところにある。その植物の、野外で見られる大木の姿を、鉢の上に縮小して再現することを目指すものである[4]。そのために剪定を施したり、自然の景観に似せるために枝を針金で固定したり、時に屈曲させたり(針金掛け)[3]、あるいは根をの上に這わせたりを掴むように露出させたり[3]と、様々な技巧を競うのも楽しみの一つとされる。

施肥、剪定、針金掛け、水やりなど手間と時間をかけて作る。生きた植物なので「完成」というものがなく、常に変化するのも魅力の1つである。
歴史
奈良時代仮山残欠

盆や鉢の中に草木や石で景色を表現する盆景の時代から行われていた。唐の李賢の章懐太子墓には盆景を捧げ持つ人物の壁画が描かれている。ただし盆景という語が現代と同じ意味で当時から存在したとする説には批判もある[1]。唐代には、盆池、仮山(かざん)という呼称もあったが、盆景が正式に何と呼ばれていたかは不明である[1]

奈良時代、遣唐使等を通じて生きた草木によるこうした盆景は、等の外来植物とともに日本へもたらされたと推測されているが[5]、それを証明する直接的な史料は見つかっていない。『万葉集』には「うえき」の語が使われているが、これは鉢植えではなく庭木のことを指すと考えられている[1]

正倉院には杉材で浜や山を作り、その上に銀製樹木を配した世界最古といわれる「仮山残欠」が伝わる。仮山とはもともとは庭園にある築山の意味である。正倉院にあるようなミニチュアとしての仮山はのちの洲浜(すはま)や盆山の祖形と考えられている[6]。同じく、正倉院には蓮花と蓮池からなる「蓮花残欠」が伝わる。池を取り囲む岩石を木材で作り、池の中央の洲浜からは金銅製の茎が伸び、その先端に木製の蓮花がつく。このように奈良時代には、生きた草木ではないが自然の景色を縮小して表現する盆景的作品がすでにあった[7]
平安時代洲浜。『東山遊楽図屏風』(17世紀)より。

続日本後紀』(869年)には、承和6年(839年)、河内国(現・大阪府)の農民が橘の花を土器に植えて、仁明天皇に献上したことが記されている[1][8]。また、長方形の木箱に草木を植えた「長櫃植え」が平安時代にはあった[1]

平安時代には和歌の歌題にあわせて名所の景を草木(ただし造りものが多い)と添配で表現するものも洲浜(すはま)と呼ばれ、歌合わせに出品され競われていた[1]。洲浜は盆景に似ているが、砂浜を模した脚付き台の上に白砂青松という日本独自の景色を表現した。のちには島台と呼ばれるようになり、婚礼の際の飾り物等として現在まで受け継がれている。

源平盛衰記』によると高倉天皇カエデハゼノキを植えた乾泉水(からせんすい)を毎日御所に届けさせたという[9][1]。これらの樹については培養されたものならば盆栽とみることもできる[1]
鎌倉時代『春日権現験記絵』に描かれた盆景。

鎌倉時代になると、絵巻物に植物、石、砂等で景色を表現した盆景的なものが描かれるようになる。『西行物語絵巻』(1195年)、『一遍上人絵伝』(1299年)、『春日権現験記絵』(1309年)には、庭先に置かれた盆景が描かれている。ただしこの時代に盆景という呼称が使われていたわけではなく、漢語では盆山[5]、和語では「うえき(植木)」、「はち(鉢)の木」[1]の呼称が使われていた。『徒然草』(第154段)には、日野資朝が曲がりくねった鉢植えの木をめでていた様子が描かれている。
室町時代

盆栽に関する直接的な史料が現れるのは13世紀後半で、禅林における記述史料に登場するようになる[1]。13世紀後半には、石菖を山形の石に植え付け青磁の盆に入れて鑑賞する「菖蒲石」があった[1]『慕帰絵詞』に描かれた鉢の木。

室町時代南北朝時代)の『慕帰絵詞』(1351年)には、それまでの盆景的な景色を表現したものから、より草木に焦点を当てた鉢の木が描かれており、のちの盆栽の萌芽が見られる。また謡曲鉢木』には、旅の僧侶を温めるために貧しい武士が秘蔵の三鉢の鉢の木を薪として火にくべる様子が描かれている。

『蔭凉軒日録』には、足利義政(1436年 - 1490年)の愛盆ぶりが記されているが、「盆山」、「盆仮山」の語が多く使われており、当時は漢語では盆栽や盆景ではなく盆山の呼称が用いられていた。
安土桃山時代

この時代の盆栽に関する記録は少ない。『日葡辞書』(1603年)に「盆山」の項目がある。それによると、盆山とは「日本人が緑色の苔をつけたり、何か小さ木を植えたりして、水面に浮かぶ小さな岩のような格好に作る、ある種の石や自然木の材」とある[10][1]
江戸時代五葉松、銘「三代将軍」。徳川家光伝承樹。樹齢約550年。喜多川歌麿、当世座敷八景。

江戸時代になると盆栽の栽培や園芸が盛んになり、盆栽が描かれた浮世絵も残る[3]。徳川幕府三代将軍、徳川家光は愛盆家として知られる。大久保彦左衛門が家光愛蔵の松の盆栽を庭に投げて諌めた逸話は有名である[11]。皇居には家光遺愛の盆栽「三代将軍」(伊東巳代治旧蔵)が伝わる[12]

江戸時代後期には盆栽人口が中世に比べて飛躍的に増加し、植木業の分業化が進むとともに植木市でも種々の盆栽が取引されるようになった[1]。当時は盆栽と書いても「はちうゑ」とフリガナを振り、単なる鉢植えと今日のような盆栽との明確な区別はなかった。

化政期には、斑入りの葉などの珍しい「奇品」植物を集め鉢植えにして鑑賞する趣味が流行した[13]。奇品の流行は投機熱を煽り、草丈7寸のカラタチバナに2300両の高値がつくこともあった[14]

盆栽では、主幹が蛇行形をとりながら、上に向かって屈曲の程度が弱まる整姿形、いわゆる「蛸作り」の姿をした盆栽が流行した。蛸作りは『慕帰絵詞』に描かれた庭園の松にも見られるが、江戸時代には盆栽にも取り入れられた[5]

江戸末期になると、大阪を中心とする上方では、頼山陽田能村竹田池大雅らの南画趣味の影響を受けた一部の茶人たちの間で、煎茶会の室内に飾るための新しい盆栽、いわゆる「文人盆栽」が好まれるようになった。盆栽は「ぼんさい」と音読されるようになり、南画の教科書ともいうべき『芥子園画伝』や『十竹斎画譜』に描かれた樹形が、盆栽の整形に影響を及ぼした。たとえば、今日「文人木」と呼ばれるような、細幹の上のほうにわずかに枝葉がついたような樹形が好まれた。また『芥子園画伝』にある直幹や懸崖といった語が盆栽用語として採用された[11]

幕末から明治にかけて、大阪青湾の地では有名な煎茶会が開かれ、室内に盆栽が飾られた。その様子は田能村直入『青湾茶会図録』(1863年)や山中吉郎兵衛『青湾茗?図誌』(1876年)に記され出版された。


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