皇紀
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西暦2024年
皇紀2684年

神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)は、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする日本紀年法である。『日本書紀』の記述に基づき、元年は西暦キリスト紀元)前660年とされている。

異称は皇紀(こうき)、神武紀元、即位紀元、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき)[1]等。
概説オランダ領東インド(現・インドネシア)を統治した日本軍により発行された外國人居住登録宣誓證明書(身分証)複数の朱印に神武天皇即位紀元(皇紀)が使用されている

日本では明治5年(1872年)に神武天皇即位紀元を制定するまでは、紀年法として元号干支を使用(あるいはそれらを併用)していた。明治維新後、政府西洋に倣って、暦法を改め太陽暦を採用するとともに、紀年法として紀元を使用することにした。

明治5年(1872年)、政府は太陰太陽暦から太陽暦への改暦を布告し、その6日後に神武天皇即位を紀元とすることを布告した[注 1](詳細は後節の「制定」を参照)。

ただし、神武天皇即位紀元の元年は西暦紀元前660年に相当するが、この根拠となっている『日本書紀』の紀年は信頼性に疑問符が付き、神武天皇が西暦紀元前660年に即位したことを歴史的事実とするには歴史的証拠に欠けるとされている(詳細は後節の「元年を西暦紀元前660年とする根拠と妥当性」を参照)。

戦前、戦中(第二次世界大戦前)の日本では、単に「紀元」というと神武天皇即位紀元(皇紀)を指していた。条約などの対外的な公文書には元号と共に使用されていた[2]。ただし、戸籍など地方公共団体に出す公文書や政府の国内向け公文書では、皇紀ではなく元号のみが用いられており、皇紀が多用されるようになるのは昭和期になってからである。他に第二次世界大戦前において皇紀が一貫して用いられていた例には国定歴史教科書がある。

戦後(第二次世界大戦後)になると、単に「紀元」というと西暦を指す事も多い。戦後は神武天皇即位紀元はほとんど使用されなくなっており、政府の公文書でも用いられていない。しかし、明治時代に公布された法令の中に現在でも有効な法令があり、その中に、神武天皇即位紀元の記述がある法令が存在する[3](詳細は後節の「神武天皇即位紀元が使われている現行法令」を参照)。

現在では、日本史日本文学などのアマチュア愛好家、観光事業者、神道関係者、居合道団体の一つである全日本居合道連盟などが使用している。

日本以外では、神武天皇即位紀元をグレゴリオ暦に換算した西暦紀元前660年2月11日を、初代天皇即位や日本国建国の「伝承的日付」「神話的日付」と位置付けていることがある[注 2]
江戸時代以前

神武天皇即位紀元に類する表現の初見は、平安時代初期(弘仁2年〈811年〉)に成立した『歴運記』[注 3]である[4]。そこには「従天皇(神武)元年辛酉、至今上弘仁二年辛卯、合一千四百七十一年也」と記述され、神武天皇即位から弘仁2年(811年)まで1471年と計算されている[5]

南北朝時代公卿北畠親房は、延元4年/暦応2年(1339年)の自著『神皇正統記』の崇神天皇の条で「神武元年辛酉ヨリ此己丑マデハ六百二十九年」と書いており、雄略天皇の条では、外宮の鎮座について「垂仁天皇ノ御代ニ、皇大神(天照大神)五十鈴ノ宮(皇大神宮)ニ遷ラシメ給シヨリ、四百八十四年ニナムナリケル。神武ノ始ヨリスデニ千百余年ニ成ヌルニヤ」と記している[6]

江戸時代になると、『大日本史』の編纂に参画した儒学者森尚謙は、元禄11年(1698年)に執筆した『二十四論』中の「日本、唐に優る八」の「一 皇祚」の項で、「恭しく惟ふに我が大日本は、天神七代地神五代、その嗣を神武天皇と稱し奉る。其の即位元年辛酉より今元禄十一年戊寅に至るまで二千三百五十八年。皇嗣承継、聖代の数一百十四代(後略)」と記し、神武天皇即位から元禄11年(1698年)まで2358年であることを述べた[7]

水戸学者の藤田東湖は、天保11年(1840年)が『日本書紀』が記す神武天皇即位の年から丁度2500年目にあたっていることから「鳳暦二千五百春 乾坤依旧韶光新」という漢詩を作った[8]。また、弘化4年(1847年)、藤田東湖は自著の『弘道館記述義』において、「正史の紀年は神武天皇辛酉元年に始まる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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