皇帝ティートの慈悲
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『皇帝ティートの慈悲』(こうていティートのじひ、イタリア語:La clemenza di Tito)K.621は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲したオペラ・セリアイタリア語。日本語では『ティート帝の慈悲』とも訳される。1791年9月6日プラハで初演された。実在したローマ皇帝ティトゥス(ティートはイタリア語読み)を描く。台本は、メタスタージオによる原作をザクセン選帝侯国の宮廷詩人カテリーノ・マッツォラ(英語版)が改作したものによる。『魔笛』とともに、モーツァルトの死の年に作られたオペラである。
作曲の経緯

このオペラは、神聖ローマ皇帝レオポルト2世がプラハで行うボヘミア王としての戴冠式1791年9月6日)で上演する演目として、ボヘミアの政府から作曲が依頼された。プラハの興行主ドメニコ・グアルダゾーニ(英語版)が依頼にあたった。メタスタージオによる台本は、1734年以来多くの作曲家によって作曲されてきたものである。この台本が指定されたのは、戴冠式の演目には「君主の慈悲」をテーマとしたオペラ・セリアがふさわしいとされたためであろう。オペラ台本としての適合性のため3幕だったオリジナルの台本をマッツォーラが2幕に短縮した。

19世紀の伝記作者ニーメチェクやニッセンによれば、モーツァルトはこの曲を18日間で書き上げたという。しかし現在では、モーツァルトは早い時期からマッツォーラと接触し、作曲を始めていたという説もある。1791年4月26日にプラハで開催されたコンサートの記録に「ロンドバセットホルン助奏付、モーツァルト氏作曲」があり、これが『皇帝ティートの慈悲』第2幕でヴィッテリアが歌うロンド(第23番)の元になっていると見られるためである。

ランドンは次の説を立てている[1]。グァルダゾーニは当初作曲をアントニオ・サリエリに依頼したが断られ、7月半ばにウィーンを訪れた際に台本の短縮をマッツォーラに依頼し、作曲をモーツァルトに依頼した。しかし、歌手の配役が決まっていなかったため、作曲はなかなか進まなかった。8月半ばにグァルダゾーニは歌手の詳細をモーツァルトに伝え、モーツァルトは『魔笛』の作曲を中断し、ほぼ伝記のとおりに曲の大部分を約18日間で書き上げた。レチタティーヴォ・セッコは弟子のジュースマイヤーが担当した。ケッヘル番号は「魔笛」より後で作曲が遅く開始されたのにもかかわらず、「魔笛」より前に作曲が完成した。
初演と再演プラハ国立劇場

1791年8月28日、モーツァルトはプラハに妻のコンスタンツェ、弟子のジュースマイヤーとともに到着した。翌29日にはレオポルト2世が到着、9月半ばまで祝祭が繰り広げられた。レオポルト2世はモーツァルトとサリエリを冷遇していたが、祝祭では『ドン・ジョヴァンニ』も上演され、サリエリはモーツァルトのミサ曲K.258、K.317『戴冠式』、K.337を指揮した。

9月6日レオポルト2世が戴冠し、その晩に国立劇場で皇帝と皇后マリア・ルドヴィカの臨席のもと、『皇帝ティートの慈悲』が初演された。皇后がこのオペラをイタリア語で「ドイツ人の汚らしいもの」(una porcheria tedesca)と評したという話は有名で、ありえそうなことだが、証拠はない(皇后はスペイン人として、夫やモーツァルトを含む嫁ぎ先の神聖ローマ帝国をドイツ人の国として意識していたと思われる)。初演が不評だったのは確かであるが、プラハでは9月末まで再演され、喝采を博した。

モーツァルトの死後、コンスタンツェはこのオペラをウィーンで初演することを企画し、1794年12月29日ケルントナートーア劇場で上演した。ウィーンでの上演は成功を収め、コンスタンツェは1795年から1796年までドイツ各地でこのオペラを上演した。
評価

19世紀から20世紀にかけて、このオペラはモーツァルトの晩年の作品の中では最も演奏頻度の低い作品となった。多くの批評家は、作曲期間の短さから「にわか作り」の失敗作と評価してきた。しかし、モーツァルトはオペラのできばえに満足していたようで、「マッツォーラ氏によって本格的なオペラに改作された」と記している[2]

マッツォーラがメタスタージオの原作を大幅にカットしたために人物描写が平板となり、音楽もモーツァルトの他のオペラと比べると密度が低いと評される[3]。皇帝ティートは「作り物めいている」とされ、モーツァルトはわざと皇帝の慈悲を非現実的に描いたのではないかとする意見もある[4]。一方、アインシュタインは、マッツォーラが原作をぶちこわしたために「百倍も効果のあるリブレットを得た」とし、評価の低さの理由をモーツァルトの時代にはすでに時代遅れになっていた「オペラ・セリア」という形式に帰している[5]


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