この項目では、日本国憲法下の皇室典範について説明しています。
大日本帝国憲法と同時期に存在した皇室典範(1889年(明治22年) - 1947年(昭和22年))については「皇室典範 (1889年)」をご覧ください。
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この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。
皇室典範
日本の法令
皇室の紋である菊花紋章
法令番号昭和22年法律第3号
種類憲法[1]
効力現行法
成立1946年12月24日
公布1947年1月16日
施行1947年5月3日
所管(宮内府→)
宮内庁[大臣官房→長官官房]
主な内容皇位継承および摂政に関する事項を中心に皇室制度について定める
関連法令日本国憲法
内閣法
旧皇室典範
天皇の退位等に関する皇室典範特例法
条文リンクe-Gov法令検索
皇室典範(こうしつてんぱん、昭和22年法律第3号)は、日本国憲法第2条および第5条に基づき、天皇・皇位継承および摂政の設置、皇族の身分、天皇や皇族の陵や墓(皇室財産)、皇室会議など、皇室に関する事項を定めた日本の法律[2]。単に典範(てんぱん)とも呼ばれる。
所管官庁は、宮内庁長官官房秘書課である。
1946年(昭和21年)11月3日の日本国憲法(昭和憲法)公布を受けて、同第100条、第2条および第5条に基づき、1947年(昭和22年)の第92回帝国議会に提案された一連の憲法附属法の制定手続の過程で枢密院の諮詢および帝国議会衆・貴両院の協賛を経て制定され、1947年(昭和22年)5月3日、昭和憲法と同時に施行された[3]。
大日本帝国憲法(明治憲法)下の皇室典範は法律ではなく家憲(=家訓)の扱いだったに対し、昭和憲法下の皇室典範は法律として定められ、立憲君主国における一般的な法律としての王位継承法となっている。 「昭和22年1月16日法律第3号」の法令番号を持つ2020年(令和2年)現在の皇室典範は「法律」として1947年(昭和22年)1月16日に公布された。他の法律と同様にその改正は国会の議決で行われることにより、皇室の制度そのものに国民の民意が国会を通じて関与することとなった。これは、制定当時、日本を占領していたGHQの強い意向によるものである[4]。 改正を議論した政府の臨時法制調査会、第一部会第八回小委員会において、自身の公職追放を恐れてGHQ民政局へのアピールのために急進改革派に変節していた宮沢俊義[5][6]から新日本国憲法第十四条、法の下の平等に基づき内親王への皇位継承権と女帝と結婚する一般国民の皇族身分の取得、すなわち女性天皇、女系天皇を認めることの要求があった[7]。しかし、これに対して現行の皇室典範を起草した高尾亮一
経緯
またこの第八回小委員会では宮沢俊義、鈴木義雄(社会党)、杉村章三郎、横田喜三郎らの宮沢グループとされる委員から天皇退位の規定についての意見が出された[10]。横田喜三郎は天皇は軍国主義の代表者であり、戦争の責任者であるから退位すべきという主張から退位条項の規定を主張していた[11]。宮沢俊義は天皇の自由意志を根拠としたが、起草者の高尾亮一は退位に伴い即位すべき皇長男子も自由意志にするのかと反論した。また本人の意思が偽装される可能性や天皇の責任の自覚の問題からも退位規定は不可であるとし、内閣法制局長官佐藤達夫らと相談し、退位については「非常の場合は」「特別立法」であることを示唆し、退位条項は置かないことと決せられた[12]。「明仁から徳仁への皇位継承#退位を認めない皇室典範」および「天皇の退位等に関する皇室典範特例法#有識者会議や国会における議論」も参照
最後に宮沢グループはGHQの意向を受けて皇族会議を解体し、皇室会議を設置するよう要求してきた。高尾は抵抗したが、宮沢グループによる修正により皇室会議への天皇の出席は排除され、参加する皇族数も二名にまで激減せられ事実上「皇族会議」は解体され現行の「皇室会議」の形となった[13]。
この皇室典範は日本国憲法施行の日と同日の1947年(昭和22年)5月3日に施行された。その前日(5月2日)、1889年(明治22年)裁定の「旧皇室典範」並びに1907年(明治40年)および1918年(大正7年)の「皇室典範増補」は廃止された(皇室典範及皇室典範摯笨E止ノ件)。また、皇室令の法形式も廃止されている(皇室令及附属法令廃止ノ件(昭和22年皇室令第12号))。詳細は「臣籍降下#旧皇室典範」および「皇室令#概説」を参照
改正
1949年(昭和24年) - 総理府設置法の制定等に伴う関係法令の整理等に関する法律
総理庁が総理府に、宮内府が宮内庁に、それぞれ組織改編されることに伴い、「宮内府」を「宮内庁」に改めた。