皇學館大学
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皇學館大学
大学本部(伊勢学舎、2010年(平成22年)8月12日撮影)
大学設置1962年
創立1882年
学校種別私立
設置者学校法人皇學館
本部所在地三重県伊勢市神田久志本町1704
キャンパス伊勢学舎(三重県伊勢市)
学部文学部
教育学部
現代日本社会学部
研究科文学研究科
教育学研究科
ウェブサイトhttps://www.kogakkan-u.ac.jp/
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皇學館大学(こうがっかんだいがく、英語: Kogakkan University)は、三重県伊勢市神田久志本町1704に本部を置く日本私立大学1882年創立、1962年大学設置。大学の略称は皇學大[注 1]。非公式には系列校と同じく學館(がっかん)や皇大(こうだい)と呼ばれることもある。
概観
大学全体久邇宮朝彦親王

1882年(明治15年)に伊勢神宮祭主であった久邇宮朝彦親王令旨によって林崎文庫に設置された神宮皇學館を母体とする[1]

主として神職教員の養成にあたり、1903年(明治36年)に官立旧制専門学校内務省所管の宗教系旧制専門学校)を経て、1940年(昭和15年)には旧制官立大学文部省所管)になるが、第二次世界大戦終結後は国家神道を推進した機関の一つとして、いわゆる神道指令を受けて廃学・解散を余儀なくされた。その後、旧制神宮皇學館大學の関係者らによって神宮皇學館大學再興期成会が結成され、現在の大学は1962年(昭和37年)にあえて私立大学として、再興された。
建学の精神

「皇學館 建学の精神」として、以下の内容が大学本部を始め各教室(一部を除く)等各所に「全学一体」の精神のもと、額縁に入れられ掲げられている。皇學館大学学則1条では教育目的を「わが国民族の歴史と伝統とに基づく文化を究明し、洋の東西に通ずる道義の確立を図り、祖国愛の精神を教育培養するとともに、社会有為の人材を育成すること」としている[2]

基本の精神

日本の神々を祀る神道を基盤として、皇室神宮を崇め、祖先を敬い、国を愛し、歴史・伝統・文化を尊ぶ心を育む。 この精神を中核として、学生は国家社会に貢献できる人物に成長できるように努力し、教員は世界に通用する学問と教育成果をあげられるように努める。 この原点を忘れないと同時に、時代状況に応じて国家社会を適切に導いていくための柔軟な精神もまた尊重される。


大学の目標

@わが国の歴史・伝統を継承・究明・応用して社会の要請に応える学園の創造

A神道精神に基づく人間性豊かな 立派な日本人の育成

B自立心に富み、社会の各領域においてリーダーとして貢献できる人材の養成


校地

神宮の外宮内宮のほぼ中間の倉田山に、大学本部(伊勢学舎、文学部教育学部現代日本社会学部)校地が所在する。

2011年(平成23年)3月までは、名張市にも名張学舎(社会福祉学部)があったが、2010年(平成22年)度より社会福祉学部の募集を停止、機能を伊勢学舎の本部に統合することを決定して、名張市から撤退した[3][4]。名張学舎跡地には、熊野市から近畿大学工業高等専門学校2011年(平成23年)4月に移転した。
令旨賀陽宮邦憲王

1962年(昭和37年)に新制大学として発足した皇學館大学は、その建学の精神を元の神宮皇學館及び神宮皇學館大學より受継いでいる。1882年(明治15年)に、神宮の鎮座する伊勢に発足した神宮皇學館は、当時の文明開化、旧物破壊の風潮に対して、日本古来の歴史伝統に基づいた学問の維持発展を目指した。1900年(明治33年)2月18日、当時の神宮祭主・神宮皇學館総裁賀陽宮邦憲王による令旨は、現在においても皇學館大学建学の精神を最もよく示すものとして入学式等で奉読されている。内容は以下の通り。

 神宮皇學館教育ノ旨趣ハ、皇國ノ道義ヲ講ジ、皇國ノ文學ヲ修メ、之ヲ實際ニ運用セシメ、
以テ倫常ヲ厚ウシ、文明ヲ補ハントスルニ在リ。夫レ業勤メザレバ精ナラズ、事習ハザレバ達セズ。
況ンヤ本館期スル所ノ學ノ重且大ナルニ於テヲヤ。

 本館學生深ク此旨ヲ體シ、常ニ師長ヲ敬重シ、館則ヲ遵守シ、黽勉(びんべん)努力、以テ他日ノ成業ヲ期シ、
夙夜敢テ怠ルコト勿レ。
教育および研究

文学部の神道国史国文学科では神社本庁神職の資格が取得できる。大学でこの資格を取得できるのは、皇學館大学と國學院大學のみである。なお、宗教科教員免許を取得できる神道系学校は、皇學館大学のみである。
沿革
略歴
前史・神宮教院

明治維新以前、伊勢神宮では神職の養成や神道・学問の研究、文書の保存などを神宮文庫の前身にあたる豊宮崎文庫や林崎文庫が主に担っていたが(神宮文庫・沿革の項を参照)、大教宣布[5]近代社格制度の整備に代表される、新政府の神道国教化の推進政策の影響を受け、神宮でも本格的な教導職の養成機関を作り、全国への神道の布教をはかる動きが起こった。そこで、当時神宮少宮司の地位にあった浦田長民らが中心となって設立したのが神宮教院であるが、これが皇學館の源流である[6][7]1872年(明治5年)10月28日教部省に「神宮教院開設届」が提出され、翌1873年(明治6年)には全国からの新入生を集めて神宮教院が開校した。1876年(明治9年)の「神宮教院規則」によると、生徒は8 - 15歳程度までの「幼学生」と16 - 18歳程の「講習生」に分けられ、寮生活の中で教学を修めることになっていた。幼学生の多くは近隣から通学していたが、小学校が近くの地区に設立されると、ほとんどの生徒はそちらに転校したため、教院生の数は激減することとなった。一方で講習生には県外出身者が多かった[7]

1876年(明治9年)10月、神宮教院はその規則が改定され、神宮教院本教館として新たに置かれた。皇學館直接の母体となったのはこの本教館である。教職員は館長・大教授・大管事1人ずつの下に、中教授・中管事、小教授・小管事、寮長、舎長が配置され、学生の学年は下等(普通学生)・中等・上等(それぞれ専門学生)に三分されていた。修業年限は4年と10か月で、授業形態は、下等から上級に進むにつれ、授読や授講から輪講、独習が多くなっていった。上等段階の学習では、キリスト教の『聖書』も使用されており、その内容の多岐さから、布教活動のための人材養成としての側面をうかがうことができる[7]

また、神宮教院は全国を13の教区に分けて布教活動を行っていたが、この教区制が本教館へ全国からの学生を確保する役割も果たしており、北は仙台、南は薩摩と幅広い地域からの出身者が学んでいた。1879年(明治12年)には、定員を50名にし、15 - 25歳の、終生教義に従うことを願った者に入学資格を与え、年限を4年とすることなどを定めたが、学生間の対立激化が直接の契機となって、本教館は1881年(明治14年)12月9日の布達をもって閉校せざるを得なくなった。社会的にも、当時の神道をめぐる政策の情勢が、祭政一致から分離の方向に動きつつあり、教導職の意義が揺らいでいたことも間接的に影響していたと考えられる[7](教導職は1884年(明治17年)に廃止)。
神宮皇學館の創設

神宮教院本教館が廃止されてから半年に満たない1882年(明治15年)4月30日久邇宮朝彦親王より「今般林崎文庫ニ皇學館設置候条、此旨相達候事」なる布達が出され、同年7月6日には内務卿皇典講究所賛襄の山田顕義宛に「皇學館設置ノ儀向」が提出され、教育機関の再興運動が始まった。


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