皇太子
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皇太子(こうたいし/ひつぎのみこ[1]/もうけのきみ[1])、王太子(おうたいし)は、皇位帝位国王の第一継承者を指す語であり、称号

現代日本皇室においては皇室典範(昭和22年法律第3号)第8条により「皇嗣たる皇子を皇太子という」と定義され、他の条文と併せ、同法に基づいて「皇太子」の称号を受けるのは『今上天皇の皇子たる親王』が皇嗣である場合のみとなる。

より広義には、日本皇室における天皇位だけでなく、国外の君主国王室における君主位(王位等)の法定推定相続人称号(例:: Crown Prince)の対訳として使われる。女性君主を容認している場合は、法定推定相続人である女子の称号(例:: Crown Princess)の対訳にも用いられる[注釈 1]
語義
字義

字義として『子』は、広義では親から生まれたものを指すが、狭義では“親から生まれた男”(すなわち息子、男子)を意味する[注釈 2](詳細は、Wikt:子を参照)。

また、『太子』・『世子』は、古代中国において長子や後継者を指す語である。

したがって、語義としては、「皇太子」とは、次期皇位継承者の第一順位にあたる「皇帝の男子」のことであり、特に日本では「天皇の男子」[3] のことである。現代日本では皇室典範では第8条に基づき「皇嗣たる皇子」と定義されている。
日本における語義の成立

後述の通り(#「皇太子制」の成立)第39代天智天皇大友皇子に、第40代天武天皇草壁皇子に、それぞれ皇族中最上位の地位を与えたが、飛鳥浄御原令の成立以降である第41代持統天皇は孫の珂瑠皇子立太子を経て皇太子とした上で譲位した。日本における「皇太子制」は律令制と密接に関連して成立した[4]。こうした時代背景の下で編纂された『日本書紀』(養老4年(720年)完成)には下記1の用例が多い。しかし下記2の用例も、『日本書紀』中に4点[注釈 3]、また、古代中国:の『隋書』に1点[注釈 4]存在する[7]
「太子」=皇太子

「太子」=長子

さらに、同時代に編纂された『古事記』には10例の皇族男子に「太子」の語が用いられ、上記2の用例が圧倒的に多いものの、長子に限定しない全く異なる用例も見られる[8]。「太子」、また『古事記』における類似語である「大兄」は、それぞれ長子の意味を本源としながら「(皇太子制確立以前の)皇位後継者」の意味を派生させる場合が少なくないと考えられている[9]

なお『日本書紀』『古事記』『隋書』における上記2の用例における「長子」の記述は、具体的には全て「(天皇又は皇帝の)長子である男性」を指している。このような中、事実上“天皇の長男”が想定されている「皇太子」位に、女子である阿部内親王が就いたことは反発もあったと考えられている[3](後述)。

この他『懐風藻』(天平勝宝3年(751年-752年)完成)では、僧侶行心大津皇子に対し「太子骨法、不是人臣之相(太子の骨法、これ人臣の相にあらず)」と語りかけた逸話が収録されており[10]、さらに派生した「皇位継承者に準じる有力者」の尊称として用いられている[11]
類例

(君主位である)王位継承の第一順位の王子(王男子)については、王太子(おうたいし)または王世子(おうせいし)のように言うこともある。

「○太子」の言葉自体がいずれ「○」の地位を継ぐ「(男の)子」を意味するため、君主の地位がである場合には王太子の名称を用いる。君主の地位が大公である場合、太子ではなく世子を用いる。ただし、モンゴル侵攻後の高麗李氏朝鮮では、君主の地位は王であるが、中国()との冊封関係下にあり「世子」を用いた(詳細は中国朝鮮関係史を参照)。また、韓国併合後も日本王公族として、その後継者は「王世子」とされた(詳細は後述、#朝鮮を参照)。

また、女性の次期後継者に対し、漢字文化圏では「皇太女」(こうたいじょ)または「王太女」(おうたいじょ)と表記されることがある[注釈 2]。実例としても、古代中国の安楽公主について「『皇太女』に立てようという動きがあった」と『資治通鑑』等に記されている。また、近年の日本語の用例として「皇太王女」もある(詳細は後述、#ヨーロッパ大陸諸国の王太子・皇太子を参照)。

次期後継者が息子でなく弟である場合は「皇太弟」の語がある。孫に対しては、現代日本の皇室典範第8条では「皇嗣たる皇孫を皇太孫という」と定義される。これらの語の詳細は後述(→#皇太弟・皇太甥)。
日本における訳例、西洋の言語との差異「プリンス」も参照

現在の日本では、マスメディアによる報道など、君主国の世継ぎについては、対象が次期国王や次期大公であっても「王太子」「大公世子」の語は用いず「皇太子」と呼ぶのが通例である(イギリス王室ウィリアム→呼称:ウィリアム皇太子)。ただしで日本国の皇太子とは異なり「さま」「殿下」などの敬称を付けない。

外務省では、「王国」「公国」や「性別」を区別せず、一律「皇太子殿下」の呼称で使用する[注釈 5][注釈 1]

これに対し、歴史上の人物については、慣例に従って「王太子」の語も用いられる。尤も、次期皇(王)位継承者が弟や孫であるなら、「皇(王)太弟」「皇(王)太孫」の語も存在するが、その地位を問わずもっぱら「皇太子」の名称が用いる。なお、西欧の言語においては、そもそも「皇帝か国王か」「子か孫か弟か」に応じた称号の使い分けは見られず、英語を例にすれば「: Crown Prince」の語が用いられる。その代わり、性別によって称号が異なることが多く、女性の次期君主位継承者の称号は、英語を例にすれば「: Crown Princess」の語が用いられるが、「Crown Princeの配偶者(妃)」にも同じ称号が用いられるので注意が必要である。

こうした西洋の言語と漢語・日本語の用法の違い等は、プリンスを参照。また、皇太子に相当する儀礼称号については後述(→#ヨーロッパ大陸諸国の王太子・皇太子
日本における女性への用例、その評価

日本では、女性に対して用いられたのは阿部内親王(=即位前の孝謙天皇[注釈 6])が唯一の例となっている。

立太子以降即位まで、『続日本紀』(延暦16年(797年)成立)は一貫して阿部内親王を「皇太子」と記している[13]
孝謙・称徳天皇(阿部内親王)

天平元年(729年)、聖武天皇安宿媛立后し、その理由のひとつに「皇太子の母」であったことを挙げた。実際には基王は既に夭折しており、29歳の光明皇后は再び男子を出産する重責を負い、12歳の阿部内親王にも中継ぎとしての即位と不婚が想定された[14]。しかし、男子が誕生せぬまま皇后が30代後半を迎え、天平10年(738年1月13日、21歳の阿部内親王は立太子された。後述の通り、阿部内親王が立太子された時期は、皇太子の概念が確立された最初期にあたる。しかし先述(→#日本における語義の成立)の通り、従来「天皇の長男」を意味する「皇太子」位に、前例に反して皇女が就いたことは異例であり、皇太子として容認しない勢力もあった[3][15]

天平15年(743年)5月、宮中で皇太子阿部内親王は群臣を前に五節舞を舞った[16]


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