皇太子裕仁親王の欧州訪問
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1921年(大正10年)5月14日、イギリスオックスフォード大学ボートレース台覧する裕仁親王オランダ訪問時の様子

皇太子裕仁親王の欧州訪問(こうたいしひろひとしんのうのおうしゅうほうもん)では、1921年大正10年)3月3日から9月3日までの6か月間にわたる皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)によるヨーロッパ各国の歴訪を扱う。日本皇太子がヨーロッパを訪問したのは初めてのことであり、日本国内でも大きな話題となった。
出発まで裕仁親王(1919年、18歳)
立案

明治期には皇族の外国留学外遊が行われるようになり、「皇族が見聞を広めるため外遊を行うことが好ましい」とされた。小松宮彰仁親王有栖川宮威仁親王が、それぞれ妃同伴で欧州や米国を訪問している。

皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)は皇太子時代の当時に国内の行啓を数多く行った。韓国併合の3年前の1907年(明治40年)10月には大韓帝国を訪問し、皇太子による史上初海外訪問となった。嘉仁親王は欧米外遊を希望する詩作を行っており[1]、韓国からの帰国後も新聞社説で皇太子外遊を歓迎する報道もなされたが、父帝・明治天皇の反対により実現されなかった[2]

裕仁親王をヨーロッパに外遊させるという計画は、1919年(大正8年)の秋頃から検討され始めた。裕仁親王は将来の天皇となる身であり、病身である父帝・大正天皇の摂政となる可能性も高いと見られていた。裕仁親王に君主制各国の王室との交友を深め、また見聞を広めてもらうという元老山縣有朋が提案したこの計画に、元老松方正義西園寺公望原敬首相も賛意を示した[3]
反対案の伸長「宮中某重大事件」も参照

ところが一部では「父母在せば遠くに遊ばず」という『論語』の文句[注釈 1]を引用して外遊に反対する動きがあった。また大正天皇の病中に外遊に出ることは不敬であるとの声や、長期にわたる旅行による裕仁親王の体への負担を懸念する向きや、さらに抗日感情を持つ朝鮮人の襲撃を懸念する声もあった[3]

1920年(大正9年)になると、母である貞明皇后も洋行に懸念を示すようになった。皇后は女子教育の先覚者下田歌子を通じて祈祷師飯野吉三郎に、裕仁親王の洋行に関する「令旨」への伺いを立てるほどであった[4]。その後中村雄次郎宮相が「洋行を行うべき」と進言し、8月4日には原首相が皇后に拝謁し、「一度は御洋行ありて各国の情況を御視察ある事尤も然るべし」という意見とともに、「裕仁親王が父帝の名代を務めることが多くなってきたことが、洋行の際にはどうなるか」という懸念を啓した[5]。元老山縣は10月中の出発を考えていたが、宮中での協議は難航し、皇后の許可もなかなか下りなかった。皇后は下田を通じて原に懸念を伝えたが、その内容は「天皇(大正天皇)の不予(御病態)が洋行中に急変するのではないか」ということであった。下田は皇后の不安を解消するためには侍医の「急変の心配がない」という診断が必要であると伝え、原もこの旨を山縣に伝達した[6]

ところが東宮大夫濱尾新が洋行反対のための活動を開始した。浜尾は東宮御学問所総裁東郷平八郎元帥の反対意見を皇后に啓上し、盛んに宮中での運動を行った[7]。元老らは皇后を説得したが許可は得られず、伏見宮貞愛親王に説得を依頼したが、元老で許可されないことを自分が申し上げても許可されないと断られた。元老松方は直接大正天皇を説得することも考えたが、天皇が風邪で病臥中であったため実現できなかった[8]

また、折しも皇太子妃に皇族の久邇宮良子女王(後の香淳皇后)が内定したが、久邇宮家の色覚異常遺伝が判明した。山縣は皇太子妃内定の取り消しに動いたが、これも洋行問題とともに右派や反山縣派の憤激を買い、洋行反対と皇太子妃内定不変更が彼らの運動の旗印となった。

1921年(大正10年)1月16日、中村宮相と松方元老は葉山御用邸で大正天皇に拝謁し、皇太子洋行の裁可を得た。中村はその後沼津御用邸の裕仁親王へ謁見し、親王も許可を喜んだ[9]


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