この項目では、三重県の伊勢神宮内宮について説明しています。その他の用法については「皇大神宮 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
皇大神宮
所在地 三重県
伊勢市宇治館町1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度27分18.00秒 東経136度43分30.63秒 / 北緯34.4550000度 東経136.7251750度 / 34.4550000; 136.7251750 (皇大神宮)
皇大神宮(こうたいじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。伊勢神宮の2つの正宮のうちの1つである。一般には内宮(ないくう)と呼ばれる。式内社(大社)。 豊受大神宮(外宮)とともに伊勢信仰の中心となる神社で、日本全国の神社で授与される神宮大麻はこの皇大神宮の神札である。 親王の結婚に際して、新婚旅行として「神宮に謁するの儀」が執り行われるのが通例となっている。複数の神社を参拝する場合、格の高い神社から低い神社の順が一般的だが、神宮の通常の神事は外宮、内宮の順で行う[1]。これを外宮先祭と呼び[1]、参拝も外宮、内宮の順で行うのが正しいといわれる[2]。ただし式年遷宮の遷御は皇大神宮、豊受大神宮の順であり[3]、奉幣(ほうへい)は豊受大神宮、皇大神宮の順である。 別宮として、境内に荒祭宮と風日祈宮、境外に月讀宮、瀧原宮と伊雑宮のほか、境内・境外に27社・33座の摂社、16社・16座の末社、30社・30座の所管社を有する。 建物は豊受大神宮と同様に外側から板垣・外玉垣・内玉垣・瑞垣の四重垣に囲まれ、南北の門に宿衛屋が置かれている。建物は神職が交代勤務で24時間、警備・管理を行っている[4]。 最寄駅は近鉄鳥羽線の五十鈴川駅[5]。内宮の鳥居前町であるおはらい町(おかげ横丁)は伊勢市を代表する観光名所である[6]。 『日本書紀』によれば、天照大神は宮中に祀られていたが、崇神天皇6年、笠縫邑に移し豊鍬入姫命に祀らせた。垂仁天皇25年、倭姫命が後を継ぎ、御杖代として天照大御神を祀るための土地を求めて各地を巡った。この経路は『日本書紀』にあまり記述がないが、鎌倉時代初期成立と考えられる『倭姫命世記』には詳述されており、その途中に一時的に鎮座した場所は元伊勢と呼ばれる。垂仁天皇26年、伊勢国にたどり着いたとき、「是の神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の波の重浪(しきなみ)の帰する国なり。傍国の可怜し国(うましくに)なり、この国におらんと欲ふ(この国に留まりたいと思う)」という天照大御神の神託があり、倭姫命は五十鈴川上流の現在地に祠を建てて祀り、磯宮と称したのが皇大神宮の始まりという。鎮座地に関して、伊勢では河川の氾濫が頻発して低湿地が広がっているため、内宮は水害に遭いにくい河岸段丘上に建てられたという説が挙げられている[10][11][12]。 明治時代までは、僧侶の姿で正宮に接近することは許されず、川の向こうに設けられた僧尼拝所から拝むこととされ、西行も僧尼拝所で神宮を拝み、感動の涙を流したという[13]。荒木田氏が祠官を世襲していたが、明治以降は世襲制が廃止された。1945年(昭和20年)7月29日、宇治山田空襲により宇治山田市は甚大な被害を蒙った[14]。内宮にも40機ほどの編隊でアメリカ軍機が神域に迫り、次第に照準が正確になってきたが、内宮の神域に差し掛かったところで焼夷弾は五十鈴川対岸の山に吸い込まれるように流れていった[15]。
概要
祭神正宮(2013年10月)
中央に見える鳥居を「板垣南御門」、鳥居の両側の玉垣を「板垣」、鳥居の奥に見える建築物を「外玉垣南御門」[7]、手前にある石段を「石階」という[8]。
主祭神
天照坐皇大御神 (あまてらしますすめおおみかみ、天照大御神)
三種の神器の1つ・八咫鏡を神体とする[注 1]。
相殿神
天手力男神 (あめのたぢからおのかみ)
左方に祀る[9]。弓を神体とする[9]。
万幡豊秋津姫命 (よろづはたとよあきつひめのみこと)
右方に祀る[9]。剣を神体とする[9]。
歴史