皇別摂家(こうべつせっけ)とは、日本の五摂家のうち江戸時代に男性皇族が養子に入って相続した後の3家(近衛家・一条家・鷹司家)およびその男系子孫を指す。
太田亮が近衛家に対して用いたのが最初。
弘仁6年(815年)に朝廷が編纂した古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』が、皇別(天皇・皇子の子孫)・神別(天津神・国津神の子孫)・諸蕃(朝鮮半島・中国大陸から帰化した人々の子孫)の3種に氏族を分類していることにちなむ造語である。ただし、同様に「皇別」「神別」の分類を用いた明治時代の宗族制では、該当する摂家はいずれも「神別」として扱われている。 江戸時代に摂家を相続した男性皇族は、次の3人である。 江戸時代までは、彼らのような出自を持つ人々を、源氏・平氏などの賜姓皇族(皇族を離脱して臣籍に降下した者及びその子孫)と同様に「王孫」と呼んでいた。
概説
近衛信尋:第107代後陽成天皇の第4皇子。近衛家を相続。
一条昭良:第107代後陽成天皇の第9皇子。一条家を相続。
鷹司輔平:閑院宮直仁親王(第113代東山天皇の第6皇子)の第4王子。鷹司家を相続。
以上のように「皇別摂家」の語は、もっぱら五摂家筆頭とされる近衛家の貴種性を表現する修辞の一つに過ぎなかったが、のちに用法を拡大し、摂家(近衛・一条・鷹司)にとどまらずその男系血統の子孫たち、つまり本家に加えて分家や他家の養子として分かれた系統についても、男系の実親子関係をたどって近世の皇室以来の血統を保持している子孫まで含まれるようになった。
一方、平安時代後期より御堂流の嫡流として摂政・関白・藤氏長者を継承してきた摂家の立場としては、その皇室に次ぐ貴種性を維持するために養子縁組を迎える場合には同じ摂家から養子を迎える、という認識が古くからあったが、江戸時代初期にそれが不可能になったために止むを得ずそれよりも上位の貴種性を持つ皇室から養子を迎えている。こうした貴種性を重んじる養子縁組の考え方は江戸時代に家格に基づく公家間の身分統制が強化されるとともに摂家の間で理念として確立されていくことになる[1][2]。ただし、これは当時の朝廷を主導・統制してきた摂家の主張・論理であり、天皇や他の公家の間で共有されていたわけではない[注釈 1]。
また、近衛信尋や一条昭良の相続は母親が近衛前子であったことから認められた特殊な事例で、江戸時代の朝廷や幕府にとっては前例とすべきではないと認識され、実際には皇室の血の引く摂家が生まれることを望ましくはないと考えられていた可能性がある。寛保3年(1742年)に九条家と鷹司家が相次いで当主の死去で断絶の危機に陥った時に、桜町天皇の弟である政宮(後の遵仁法親王、中御門天皇第六皇子にあたる)にいずれかもしくは二条家[注釈 2]を相続させようと言う案が浮上したものの、天皇は親王の養子縁組が安易に行われることは皇室の威信(「王威」)を傷つけるとした上で政宮が病弱であることを理由に最後まで反対し、また摂家や武家伝奏の間では『禁中並公家諸法度』第6条にある養子縁組は同姓から迎えるという規定との兼ね合いで幕府から許可が得られるかも問題視されている。最終的には天皇・摂家・幕府との調整の結果、天皇の実子である政宮の相続は回避され、鷹司家には閑院宮家からの養子縁組が行われることとなった[4]。 近衛家・一条家・鷹司家の本家は、現在ではいずれも「皇別摂家」に該当しなくなっている。
系図
107 後陽成天皇
108 後水尾天皇 近衛信尋 高松宮(有栖川宮)好仁親王 一条昭良
109 明正天皇 110 後光明天皇 111 後西天皇 112 霊元天皇
有栖川宮幸仁親王 113 東山天皇 職仁親王
〔有栖川宮家へ〕 吉子内親王
正仁親王
114 中御門天皇 閑院宮直仁親王
115 桜町天皇 遵仁法親王 典仁親王 (慶光天皇) 倫子女王 鷹司輔平
117 後桜町天皇 116 桃園天皇 美仁親王 119 光格天皇
118 後桃園天皇 120 仁孝天皇
桂宮淑子内親王 121 孝明天皇 和宮親子内親王
122 明治天皇
継承・存続状況