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出典検索?: "皆川広照"
凡例皆川 広照
皆川広照像(金剛寺蔵)
時代戦国時代 - 江戸時代前期
生誕天文17年(1548年)
死没寛永4年12月22日(1628年1月28日)
改名広照→老圃斎(法名)
別名又三郎(通称)
戒名三清院殿善翁慶勝大居士
墓所栃木県栃木市皆川城内町の金剛寺
官位従四位下、山城守
幕府江戸幕府
主君宇都宮国綱←→北条氏政-北条氏直→滝川一益→宇都宮国綱→北条氏直→徳川家康→松平忠輝→徳川秀忠→家光
藩下野皆川藩主→信濃飯山藩主→常陸府中藩主
氏族皆川氏
父母父:皆川俊宗、母:水谷治持の娘
兄弟広勝、広照、広秀、広長、広忠
妻正室:中御門宣綱の娘(北条氏政の養女)
鶴子(壬生綱雄の娘、壬生義雄の妹)
子勝照[1]、隆庸、宗富、娘(結城晴朝養女)
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皆川 広照(みながわ ひろてる)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。下野皆川城主。下野栃木城主、下野皆川藩主、信濃飯山藩主、常陸府中藩初代藩主。
皆川俊宗の次男。水谷正村は伯父にあたる。処世術に優れ、小勢力ながらも上杉、北条、織田、徳川などのときの権力者を渡り歩き、江戸時代の譜代大名として生き残りに成功した。
山上宗二が関東へ下っていた際に秘伝書である『山上宗二記』を託された1人である事、皆川領内で狂言を催したことから茶道をはじめ、文化的にも造詣が深かった人物と推測される。 天文17年(1548年)下野皆川城主・皆川俊宗の次男として誕生する。 幼い頃に皆川城の鬼門を守る、皆川持明院で修行をしたといわれている。 当時、北関東は越後国の上杉氏、相模国の後北条氏ら二大勢力の利権争いの渦中にあり、北関東に跋扈する小勢力は生き残りを図るために従属、離反を繰り返していた。皆川家も例外ではなく、永禄4年(1561年)、俊宗は皆川家の支城である太平山城
生涯
父・俊宗の時代
俊宗は長男である広勝よりも次男である広照に愛情を注いだ。広照は俊宗と共に永禄6年(1563年)の川連城攻略、永禄7年(1564年)の榎本城攻略に参陣。また、俊宗が元亀3年(1572年)正月、北条氏政、那須資胤と連携し、主家である宇都宮氏の居城・宇都宮城を占領して岡本宗慶を殺害した際、残された当主・宇都宮広綱の幽閉を広照に命じている。
俊宗が天正元年(1573年)、北条氏政と戦い関宿で上杉方として討死する(上杉謙信と戦い北条方として討死した説もある)と、兄・広勝が当主となった。
天正3年(1575年)、広照は北条方として佐野氏の家臣である平野久国の守る粟野城を家臣の斎藤秀隆に命じて攻め落とした。 天正4年(1576年)に兄の広勝が29歳で急死したことから家督を継いだ。 天正5年(1577年)宇都宮方であった皆川家に北条氏が大軍を持って攻めたてたが、これを防いでいる。同年、粟野城主であった平野久国の軍勢が皆川城の支城である川連城に夜討ちを行った。この奇襲で川連城は炎上。城主であった川連仲重
家督継承
天正6年(1578年)、上杉謙信が没すると佐竹氏を中心に北関東の領主が連合を結び広照も加入した[3]。
天正7年(1579年)に北条氏が佐竹氏、宇都宮氏、那須氏、結城氏連合軍と下総国小川の原で対陣すると、広照は北条方として参陣した。両軍の対陣は2ヶ月にも及ぶが決着が付かず、両軍は退陣した。この戦い以後、北条氏の北関東攻略は停滞することとなり北関東の混乱は終息していった[4]。
この頃、広照は皆川城の東の支城である栃木城の拡張に着手。川連城下にあった圓通寺、常願寺などの寺社を相次いで移築させている[5]。
信長・家康との繋がりと親交を深め徳川家康への接近を試みた。
天正9年(1581年)10月、中央政権と関わることの多い紀州根来寺で修行していた叔父の玄宥を道案内とし、家臣の関口石見守を安土城へ遣わした。取り次ぎは織田家臣・堀秀政が行い念願叶って信長に黒脚毛の馬を含む名馬三頭を送って誼を通じたのである。馬好きでもある信長は大変喜び、「天下布武」の朱印状と縮羅百端・紅緒五十結・虎革五枚など馬七頭分を贈答した。また堀秀政の副状が添付された。当時の畿内では皆川氏の知名度は低く、信長らが広照に出した書状は長沼や常陸国蜷川などと名前を間違えている。信長は関口石見守の帰還における安全担当として、家臣の滝川一益に命じ、東海道の安全を保障した[6]。
また、関口は帰還の折、浜松城で徳川家康と面会し、家康は広照が信長に近づいたことを祝福して広照との今後の交流も約束した。土産として宇治茶も贈った[7]。
翌天正10年(1582年)、織田家の甲州征伐後に関東に赴任した滝川一益に仕えた。上野厩橋城を拠点とした一益に広照をはじめ、宇都宮国綱、佐竹義重などの関東の反北条方領主は従属の姿勢を見せたが、織田家は北条氏とも友好関係であったため複雑な外交を求められた。