皆実町六丁目停留場
宇品線ホーム
みなみまちろくちょうめ
Minami-machi 6-chome
所在地広島市南区皆実町三・五・六丁目北緯34度22分27.12秒 東経132度27分50.61秒 / 北緯34.3742000度 東経132.4640583度 / 34.3742000; 132.4640583
皆実町六丁目停留場(みなみまちろくちょうめていりゅうじょう、皆実町六丁目電停)は、広島市南区皆実町三丁目・五丁目・六丁目にある広島電鉄宇品線・皆実線の路面電車停留場。駅番号は宇品線がU9、皆実線がH9。両線の乗り換え停留場である。ごく稀であるが、皆六(みなろく)と略して呼ばれる事がある[2]。 当停留場は1935年(昭和10年)に宇品線の停留場として開設された[1][3]。ただし当地にはそれより前に宇品線の路線が乗り入れており、停留場が設けられていた。ここではその停留場についても取り扱う。 宇品線は1912年(大正元年)に紙屋町停留場から御幸橋の西詰にある御幸橋停留場までの区間が開通、橋の東側の当地で電車が運行されるようになったのは1915年(大正4年)のことである[4]。ただし当時は御幸橋上の軌道は通じておらず、前述の区間と橋の東詰から宇品[5]までの区間とに分かれていた[4]。橋の東詰には御幸橋東詰停留場[6](みゆきばしひがしづめていりゅうじょう)が置かれ、御幸橋停留場との間で橋を渡る徒歩連絡が行われていた[4]。また御幸橋東詰から宇品までの軌道は京橋川の東岸、宇品地区の西堤防沿いに敷かれており、全線が単線であった[4]。 2つの区間が軌道によって結ばれたのは1919年(大正8年)のことである[7]。徒歩連絡の必要がなくなった後も御幸橋東詰停留場は存置され、1927年(昭和2年)ころには専売局前停留場(せんばいきょくまえていりゅうじょう)に改称された[7][8]。名前の通り停留場前には専売局(のちの日本たばこ産業広島工場)が置かれていた[4]。 西堤防沿いに敷かれていた軌道は1935年(昭和10年)に東にある宇品通り上に移設され[4]、専売局前停留場はこのとき廃止された[3]。そして同日新線上に開設されたのが当停留場である[3][9]。当時の停留場名は皆実町停留場(みなみまちていりゅうじょう)であった[3][7]。皆実線が開業し2路線が分岐する停留場となったのは太平洋戦争下の1944年(昭和19年)で[7]、停留場名はこのとき皆実町三丁目停留場(みなみまちさんちょうめていりゅうじょう)に改称したとされる[3]。しかしその翌年の1945年(昭和20年)8月6日、原爆投下により市内電車は全線が休止される[7]。それでも宇品線は当停留場を含む電鉄前から向宇品までの区間が同月中に復旧、皆実線は遅れて1948年(昭和23年)に全線が復旧した[7]。停留場名は戦後まもなく専売局前停留場、1949年(昭和24年)ころに専売公社前停留場(せんばいこうしゃまえていりゅうじょう)と相次いで改称された[3]。その後1962年(昭和37年)ころに再び皆実町三丁目に改称され、皆実町六丁目と称するようになったのは1971年(昭和46年)からのことである[3]。
目次
1 歴史
2 構造
2.1 運行系統
3 周辺
4 隣の停留場
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
歴史
1915年(大正4年)4月3日 - 宇品線の御幸橋東詰 - 宇品間が開通、御幸橋東詰停留場と御幸橋停留場の間は徒歩連絡を実施[7]。
1919年(大正8年)5月25日 - 軌道専用橋の完成により御幸橋 - 御幸橋東詰間が開通[7]。
1927年(昭和2年)ころ[8] - 御幸橋東詰停留場が専売局前停留場に改称[7]。
1935年(昭和10年)12月27日 - 専売局前 - 宇品間が旧線から新線に移設[7]。旧線の専売局前停留場が廃止され、新線上に皆実町停留場が開業[3]。
1944年(昭和19年)12月27日 - 皆実線が開業し接続[7]、皆実町三丁目停留場に改称[3]。
1945年(昭和20年)
8月6日 - 原爆投下により、運行休止[7]。