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やノートページでの議論にご協力ください。的屋(てきや)とは、縁日や盛り場などの人通りの多いところで露店や興行を営む業者のこと。
香具師(やし)、三寸(さんずん)とも呼ばれる[1]。また、職業神として元々は中華文明圏より伝わり、神道の神となった「神農の神」「神農炎帝」を祀ることから、神農(しんのう)とも呼ばれる。
警察では、的屋を暴力団の起源の一つと定義しており[2]、戦後の混乱期に的屋は、博徒・愚連隊と同様に闇市を縄張として、覚せい剤の密売などの違法行為を行っていたと警察白書に記されている[2][3]。平成以降の定義では「博徒、的屋等組織又は集団の威力を背景に、集団的に又は常習的に暴力的不法行為を行うおそれがある」としており、的屋も暴力団の経済活動の一つとしている[3][4]。 祭りや市や縁日などが催される、境内・参道・門前町において屋台や露店で出店して食品や玩具などを売る小売商や、射幸心を伴う遊技として射的やくじ引などをする。街商や、大道芸にて客寄せをし商品を売ったり、芸そのものを生業にする大道商人(だいどうしょうにん)などが含まれる。「当たれば儲かる」ことから的矢[注釈 1]に準えて言われるようになった言葉である。 前述の「祭礼(祭り)や市や縁日などが催される、境内、参道や門前町」を庭場
概要
的屋は「露天商や行商人」の一種であり、日本の伝統文化を地域と共有している存在である。それゆえ、的屋は価格に見合った品質の商品を提供するというよりも、祭りの非日常(ハレ)を演出し、それを附加価値として商売にしている性格が強い。注連縄、お飾り
日本は古くから様々な生業において「組」という徒弟制度や雇用関係があり、的屋も噛み砕いて表現すれば、親分子分(親方子方・兄弟分・兄弟弟子)の関係を基盤とする、企業や互助団体を構成する人々でもある。的屋は零細資本の小売商や、雇用されている下働きの人々の団体というイメージもあるが、これに該当しない地域に密着した形や、個人経営や兼業の的屋も多くある。地勢的・歴史的・人的・資本的要素が複雑に絡み合って、発生し成り立ってきた背景から、単に的屋として一括りに定義することは難しいと言われて、後述する猿楽、香具師、的屋、蓮の葉商い、鳶職ないし植木職の5つが源流とされる。
小沢昭一などの文化人は的屋の啖呵を“昭和の風物”として文献や音源に残している。また映画『男はつらいよ』の主人公、“フーテンの寅”車寅次郎の生業として知られる。 「寺社などの託宣」とは具体的には寺社普請といい、現在でも残存している。特に明治時代以前の人々の暮らしは政(まつりごとが自治権として地域で認められていた)の中心として寺や神社があり、定期的な修繕や社会基盤の拡張や一新を図るに当たり、莫大な費用が必要になった。寄付を直接募るよりは、的屋を招き祭りを開催して非日常的な演出で、的屋の売り上げの一部を場所代として請求し、普請の資金とした。技術を持った商売人としての的屋は、生活が成り立ったという背景がある。ちなみに宝くじの起源である「富くじ」も、寺社普請のために設けられた、非日常を演出する資金収集の手段であった。 有縁が縁日に変化し、庶民の生活習慣に深く根ざすようになったことや、各地域での経済の発展と市(定期市)の発生が、的屋を中心とする露天商の発展を促した。また会日を根源とすることが、縁起と神事や、祓いや占いなどの価値観が、商売としても商品にも反映されている。江戸時代には祭り文化と相俟ってますます栄え、この勢いは昭和初期まであり、第二次世界大戦前の東京都内では、年間に600を超える縁日が催されており、忌日をのぞいて日に2・3ヶ所で縁日が行われていた。しかし戦争による疲弊から縁日は祭りとともに消えていった。祭りは住民参加型であれば復活するものも多いが、縁日は職業人としての的屋が担う部分が多く、時代錯誤に感じる世間の風潮もあり、成り手の不足からその総数は減少の一途をたどった。 的屋(まとや)が営む「懸け物の的場(景品交換式遊技場)」は、現在の温泉場や宿場町に残る射的場の起源であり、スマートボールやパチンコの源流でもある。また法律の成立においても懸け物の的場(景品交換式遊技場)が基本にあるので、「遊技」という言葉が「遊戯」ではないのは、弓矢は技術が伴うことに由来し、法律の根拠としても偶然性のみのくじ引きである、「富くじ(宝くじ)」との区別の根拠となっている。また、的屋や宿場町で営まれる射的場は文化や時代の背景があり、現在のパチンコなどは利害だけの産業といえる。
歴史
猿楽(さるがく)
平安時代に生まれた古典芸能。日本古来からの物真似や形態模写などのお笑い芸や剣舞や独り相撲の舞踊りと唐から伝わった奇術や手品または、軽業や曲芸などの芸が合わさりできた芸能で、奉納相撲
蓮の葉商い・如何様師
時節や年中行事に必要な縁起物である、木の実や葉、野菜や魚(地域によっては普段は禁じられていた獣肉など)などのいわゆる、季節物や消え物(きえもの)を市や縁日で販売していた。郊外においては、蓮の葉商いのそのまま形で、地域に根ざした人々が、祭りなどで先祖代々に渡り、季節の縁起物を販売している。具体的には、農家でありながら、縁日や市の立つ日や祭り時には、福飴や餅などを製造し販売していて、それが何代にも継承されていることがある。古くは寺社などの神託を受けて商品ではなく縁起物を振舞うことを生業とし、その謝意として祝儀を受け取る祭りには欠かせない、職である。お守りを売っているのと変わらないわけで、その品そのものの商品価値より縁起物としての色合いが強いのである。そのため、一部からは粗悪品を巧みな口上で不当な価格で売る真っ当でない商人との蔑視を受けた歴史を持つ。際物売り・まがい物売りなどと表現され、的屋の発祥の一つとされる蓮の葉商いや如何様師(いかさま師)などがあり、その語源の発祥とその経緯(蓮の葉商いも如何様師もまがい物や際物を売る者という意味がある)が一致している。手品や奇術の多くは唐から伝わり猿楽の芸の一つであり、如何様(いかさま)とも呼ばれ、それを行うものを如何様師とも呼称していた。また的屋においても昭和初期まで奇術や手品を使い、客寄せをする者も多く存在し、「がまの油売り」が演じる「真剣を使って腕を切る」芸のカラクリにその片鱗が見て取れる。