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出典検索?: "的場直樹"
的場 直樹東北楽天ゴールデンイーグルス バッテリーコーチ #82
千葉ロッテマリーンズ時代
(2011年 ロッテ浦和球場)
基本情報
国籍 日本
出身地大阪府大阪市住吉区
生年月日 (1977-05-09) 1977年5月9日(47歳)
身長
体重179 cm
87 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手
プロ入り1999年 ドラフト3位
初出場2000年4月30日
最終出場2011年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
上宮高等学校
明治大学
福岡ダイエーホークス
福岡ソフトバンクホークス (2000 - 2009)
千葉ロッテマリーンズ (2010 - 2012)
コーチ歴
北海道日本ハムファイターズ (2014 - 2017)
千葉ロッテマリーンズ (2018 - 2022)
東北楽天ゴールデンイーグルス (2023 - )
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的場 直樹(まとば なおき、1977年5月9日 - )は、大阪府大阪市住吉区出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)、プロ野球コーチ。 中学3年時にはボーイズリーグ・ジュニアホークスで全国優勝[1]。上宮高では大場豊千(巨人)とのバッテリーで三木肇(ヤクルト)も同期。明治大学時代は3年春に小笠原孝(中日)と組んで優勝を経験。4年時は主将を務めながら同期の木塚敦志とバッテリーを組み、アマチュアNo.1捕手と評価された。東京六大学リーグは通算60試合出場、205打数50安打、打率.244、本塁打3、打点18で、ベストナインを2回受賞している。 1999年のドラフト会議において、福岡ダイエーホークスから3巡目で指名を受け、入団。また、2000年のシドニーオリンピックのアジア最終予選に日本代表の一員として出場した。 2000年には正捕手の城島健司が負傷したため、34試合に出場した。 2004年に開催されたアテネオリンピックで、野球日本代表に城島が選出されると、田口昌徳と共にその穴を埋めた。2005年には城島がケガで離脱した際にも大半の試合でスターティングメンバーを任され、4年ぶりに本塁打も2本打った。その年出場したプレーオフにおいても、城島が公式戦終盤に骨折欠場したため、正捕手を任された。 2006年に城島がシアトル・マリナーズへ移籍したことからチームの新正捕手争いが激化した。的場は経験・安定感に勝ることから最有力候補と目されており、開幕先発出場を勝ち取るなどシーズン序盤は常時先発出場をしていたが、自身の打撃難と山崎勝己の台頭によって、中盤以降は斉藤和巳専属捕手の形になった。プレーオフでは対戦相手の北海道日本ハムファイターズに優勝を決められた時に悔しさのあまりに号泣した。 2007年も引き続き、主に斉藤が先発する試合でマスクを被ったが、その斉藤本人が故障がちだったことや打力に秀でる田上秀則の台頭によって、前年よりもさらに出場機会が減少した。2008年は斉藤のケガが悪化したことでシーズンを棒に振ったことや、的山哲也の加入、さらに谷裕亮が起用されたことからほとんど出番がなく、先発出場は2試合のみ、トータルでも8試合出場に留まった。 2009年は一軍出場すら無い状態で、二軍でも38試合の出場に留まる。同年10月3日にソフトバンクから戦力外通告を受けた[2]。その後行われた12球団合同トライアウトを受験し、千葉ロッテマリーンズの秋季練習でテストを受け、同年11月20日にロッテへの入団が発表された。なお、戦力外通告を受け、トライアウトを経てロッテの入団テストに合格するまでの顛末は、『プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達2009』(TBSテレビ)で紹介された。 2010年は正捕手の里崎智也が離脱したこともあり、リードや守備での実力が認められ、一軍での出場機会を前シーズンから大幅に増やし「新たなるリストラの星」(「リストラの星」はソフトバンク時代の先輩・宮地克彦の代名詞だった)として注目された。この模様は『バース・デイ』(2010年5月1日)で「第2の野球人生 家族のために」として放送された。9月25日のオリックス・バファローズ戦ではプロ入り初の猛打賞を達成し、自己最多となるシーズン30安打を記録した。
経歴
プロ入り前
ダイエー・ソフトバンク時代ソフトバンク時代
ロッテ時代キャッチボールをする的場(2010年4月24日)