的場均
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的場均
2010年11月27日
基本情報
国籍 日本
出身地北海道新冠郡新冠町
生年月日 (1957-03-25) 1957年3月25日(63歳)[1]
身長160cm(2000年)[1]
体重52kg(〃)
騎手情報
所属団体日本中央競馬会
所属厩舎大久保房松(1975年3月 - 1989年2月)
フリー(1989年3月 - 引退)
初免許年1975年3月1日
免許区分平地
騎手引退日2001年2月28日
重賞勝利68勝(中央63勝、地方5勝)
G1級勝利13勝
通算勝利12387戦1454勝
(中央12309戦1440勝、地方78戦14勝)
調教師情報
初免許年2001年(2002年開業)
経歴
所属美浦T.C.(2001年 -)
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的場 均(まとば ひとし、1957年3月25日[1] - )は、日本中央競馬会 (JRA) 所属の元騎手で、現在は調教師

1975年に騎手デビュー。若手のころより頭角を現し、関東所属の上位騎手として定着。1989年にドクタースパート皐月賞を制したことを皮切りに、1990年代に入り数々のGI競走を制する。特にGI競走3勝のライスシャワー、同4勝のグラスワンダーとは名コンビを謳われた[2][3]。また、なんらかの記録が懸かった馬を破る例が多かったことから「ヒットマン」などとも称された。2001年2月に引退。騎手通算成績は12387戦1454勝(うちJRA12309戦1440勝)、GI競走13勝を含む重賞68勝(同前63勝)。調教師として、2002年より美浦トレーニングセンターに厩舎開業。

JRA騎手の的場勇人は息子[4]。JRA騎手、調教師の柄崎義信は[5]、柄崎孝は義兄[4]目次

1 来歴

1.1 騎手デビューまで

1.2 騎手時代

1.3 調教師時代


2 人物

3 逸話

4 騎手成績

4.1 年度別成績

4.2 受賞


5 調教師成績

6 著書

7 脚注

7.1 注釈

7.2 出典


8 参考文献

9 関連項目

10 外部リンク

来歴
騎手デビューまで

1957年、北海道新冠郡新冠町の農家に、10人兄弟の末子として生まれる[6]。実家は米作を家業として農耕馬を飼養し、また、かたわらで競走馬の生産も手がけており、馬はごく身近な存在であった[6]。1961年[4]、父親に連れられて札幌競馬場を訪れ、はじめて競馬の様子を目の当たりにする。そこで騎手たちの姿に憧れを抱き、このときよりおぼろげながら将来に騎手を志した[6]。小学生になってからは厩舎作業の手伝いもこなすようになり、また、家で飼う農耕馬にまたがり、独学で乗馬技術を覚えていった[6]

中学3年次の秋に中央競馬の騎手養成長期課程を受験したが、不合格となる[7]。しかし受験の手続きを買って出た人物から、中央競馬の厩舎で作業をこなしながら騎手を目指す「短期講習生」という道があることを知らされ、後に知人の伝手を頼って中山競馬場所属の調教師・大久保房松を紹介された[7]。大久保は75歳と高齢で「もう弟子はとらない」と一度は断られたが、実家での直接面談を経て入門が決まり、1972年4月に上京[7]。大久保厩舎の一員となった。厩舎の兄弟子には当時のトップジョッキーであり、後に騎手顕彰者として殿堂入りを果たす郷原洋行がいた[7]

大久保は昔ながらの「技術は見て盗むもの」という信条をもち、的場が彼から具体的な技術を教わることはなかったが、しかしごく未熟なうちから調教騎乗の機会を積極的に与えられ、そこで何らかのミスがあっても叱られることはほとんどなかった[8]。一方で郷原からはしばしば叱られつつも騎乗技術の要点を具体的に教わり、的場は本人の言う「絶妙なバランス」の中で育成されていった[8]。的場が郷原から叩き込まれた最も大切な技術は「馬との約束事をいかに作るか」という部分であったという[8]
騎手時代

1975年3月1日に騎手免許を取得[4]。同日の中山開催でデビューする予定だったが、騎乗するはずだった1頭が故障のため出走できなくなり、翌週のデビューとなった[9]。初戦は中山開催でタイコウヒメに騎乗して11着[4]。初勝利は7月6日の中山開催、騎乗馬リュウセイで挙げた[9]。当初は同期生が続々と勝ち上がっていく焦りから早仕掛けのレースを繰り返していたが、秋の東京開催久保田金造厩舎の馬の騎乗した際、「残り200mまで仕掛けを待て」という指示から勝利を挙げたことで、学ぶものが多かったという[4]

初年度は12勝、2年目には重賞初勝利のスプリンターズステークス(騎乗馬ジャンボキング)を含む27勝、3年目には関東5位(全国7位)の46勝を挙げ、名騎手がひしめく関東において若手有望株として注目を集める[4]。以後も着実に地歩を固めていき、ランキング上位に定着した[4]。かつて郷原が手本としていた野平祐二は、若手時代の的場について「デビュー当時から、新人としては際だったスタイルをしていた。レースの運び方に柔軟性があってリズムもある点と、鞭の使い方が垢抜けているのが、彼の大きな財産といえる。ほとんど欠点といった欠点がない騎手で、岡部幸雄柴田政人が的場と同じ年の頃には、とても彼ほどの技術はなかった」と評している[10]。他方、八大競走グレード制導入(1984年)後のGI競走には縁遠く、JRAが作成したポスター「ジョッキー列伝」のコピーでも「不思議なことに的場均は、いまだにGIを勝っていない」と記されていた[11]

1989年2月、大久保が定年のため調教師を引退し、これを機に的場はフリーとなる[4]。4月16日、義兄の柄崎孝が管理するドクタースパート皐月賞を制し、デビュー15年目にしてGI競走を初制覇[4]。さらに1990年にはリンドシェーバー朝日杯3歳ステークスを制し、GI2勝目を挙げた[4] 宝塚記念でライスシャワーに騎乗(1995年6月4日)

1992年のクラシック三冠路線において、的場はライスシャワーに騎乗。的場は当初、同馬をさほど高く評価していなかったが、東京優駿(日本ダービー)2着を経て見直し、秋には三冠最終戦・菊花賞に臨んだ[12]


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