この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "百科全書"
この項目では、18世紀フランスの書物『百科全書』について説明しています。百科事典一般を意味する「百科全書」については「百科事典」を、明治前半期に文部省が翻訳・刊行した叢書については「百科全書 (文部省)」をご覧ください。
百科全書の表紙
『百科全書』(ひゃっかぜんしょ、仏: Encyclopedie, アンシクロペディ)は、フランスの啓蒙思想家ディドロとダランベールら「百科全書派」が中心となって編集し、1751年から1772年まで20年以上かけて完成した大規模な百科事典。正式名称は、『百科全書、あるいは科学、技術と工芸の理論的辞書』(仏: Encyclopedie, ou Dictionnaire raisonne des sciences, des arts et des metiers)。 『百科全書』の出版は、イギリスのイーフレイム・チェンバーズによる『サイクロペディア』(英: Cyclopaedia、1728年)に刺激され、企画された。当初この企画は、『サイクロペディア』に目をつけたフランス在住のイギリス人ジョン・ミルズが、フランス語への翻訳を、パリの王室公認の出版業者であるアンドレ・ル・ブルトンのところへ持ち込んだことから始まった。ミルズとその助手はフランス国内の出版法を知らなかったため、フランス人であるル・ブルトンへ相談したのだが、ル・ブルトンが王室発行の出版特認を自分のみの名前で取得したことから、ミルズとル・ブルトンの間で裁判沙汰がしばらく続き、その間に取得した特認は失効してしまう。 ミルズらとの裁判が一段落した後、1745年5月には、『百科全書』の原型は『百科全書、あるいは技術と科学の普遍的辞書』(仏: Encyclopedie ou dictionnaire universel des arts et des sciences)として告知文が出され、チェンバースの『サイクロペディア』内の記述の誤りを正し、新たに発見された項目を追加する役割のみの編集者として、フランス科学アカデミーの地学部門会員であるジャン=ポール・ド・グワ・ド・マルヴが任命された。しかし、マルヴは全体的な改訂とそのために大勢の編集助手・執筆者を参加させることを提案した。その中に当時ほぼ無名だったディドロやダランベールも含まれていたが、ル・ブルトンは費用がかかりすぎることと、執筆者の知名度が低過ぎることを理由に強硬に反対を続ける。 編集作業が開始されてからマルヴは口論に疲れ果て、編集長を辞任してしまう。そのため、ル・ブルトンは編集長にディドロを任命したが、ディドロは再度、もっと包括的で翻訳ではなく、自分たちが執筆した『百科全書』を出版するようル・ブルトンらを説得した。ル・ブルトンは合意し、ディドロは知人であり、当時はるかに名声の高かったダランベールに共同編集者を依頼する。 ダランベールが執筆した『序論』によれば、これは、「技術と学問のあらゆる領域にわたって参照されうるような、そしてただ自分自身のためにのみ自学する人々を啓蒙すると同時に他人の教育のために働く勇気を感じている人々を手引きするのにも役立つような」事典であった。当時の技術的・科学的な知識の最先端を集めたこの書物は、古い世界観をうち破り、合理的で自由な考え方を人々にもたらすのに大きく貢献した。しかし企画段階から体制側との緊張関係の中で刊行された『百科全書』は、そこに記された思想によって意味を持つだけでなく、その刊行自体が一つの政治的な意味を持っており、18世紀のフランス啓蒙思想が成し遂げた成果といえる。 総執筆者は184人で、最年長のファルコネは1671年生まれ、最年少のモルレは1819年に亡くなっている。『百科全書』の執筆に参加した人々は通常「百科全書派」と呼ばれており、そのなかにはヴォルテール、モンテスキュー、ルソーなども含まれるが、むしろ必ずしも有名ではない知識人がその大半を占める。
概説
歴史