百瀬博教
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百瀬 博教(ももせ ひろみち、1940年昭和15年〉2月20日 - 2008年平成20年〉1月27日)は、作家詩人格闘技プロデューサー。日本スノードーム協会事務局長[1]血液型AB型。総合格闘技イベントPRIDEとの関わりから、「PRIDEの怪人」の異名を持っていた[2]
来歴

東京市浅草区(現台東区柳橋出身。侠客の百瀬梅太郎の次男として出生。学生時代は相撲取りを目指し、私立市川高等学校[3]では相撲部を創設して、関東大会2位、国民体育大会に出場した。立教大学文学部史学科在籍中も相撲部に所属し、同大学の相撲部は、百瀬と交流のある周防正行1992年(平成4年)に監督した映画『シコふんじゃった。』のモデルになっているという[4]

大学時代は1960年(昭和35年)から赤坂の高級ナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で用心棒を勤めた。そこで俳優石原裕次郎と知り合うことになり[5]弟分」を名乗ることとなる。用心棒として23歳のときから拳銃密輸を始め、28歳のときに拳銃不法所持により警視庁へ出頭。その後、裁判前に秋田県に逃亡したが結局逮捕され、6年間の刑務所生活を送り、その間に読書生活を送った[6][7][8]

34歳で出所し、処女詩集『絹半纏』を出版[9]1988年(昭和63年)に『新潮』誌上で文芸評論家山本健吉に認められる[5][10][11]バブル経済の最中、債権の回収を行なったり、株式運用を行なったが、バブル崩壊により無一文になった。並行して作家の曽野綾子のすすめにより『新潮45』で1989年から『不良日記』を連載[5]1992年(平成4年)から『週刊文春』で『不良ノート』の連載を開始、その他『週刊宝石』で『百瀬博教交遊録』を連載し、エッセイを執筆するなど作家として本格的に活動を始めた。日本文化研究家のエドワード・G・サイデンステッカーとは1989年(平成元年)に共著を出版。テレビ番組制作プロダクションイーストの富永正人社長と親交を持ち、イースト制作の番組に出演した他、イーストライツが出版する雑誌『Free&Easy』に連載を持った[12]

格闘技愛好家としても知られる。プロレスラーアントニオ猪木と親交を持ち、総合格闘技イベントPRIDEには1999年(平成11年)から関わりを持っていた。メディア登場時には「FOREVER YOUNG AT HEART」(心は永遠の若者)とプリントされた黒い野球帽を常に被っている事でも知られていた。大手ネット掲示板2ちゃんねるでの通称は「ピーチ」。「百瀬」の読み、「ももせ」を「桃」としてその英語読みから取られたもので、猪木はそのニックネームを知ると「ピーちゃん」と気に入っていた[13]

2008年(平成20年)1月27日午前2時40分ごろ、自宅を訪れた知人が風呂場の湯船の中で意識を失っている百瀬を発見。救急搬送されたが、同日午後3時半ごろ、死亡が確認された[14]。死の3年ほど前から体調を悪化させていたという[15]。映画『タバコ・ロード』について書いた文章が絶筆となった[16]2月20日青山葬儀所でしのぶ会「不良ノート」が開かれ、アントニオ猪木、ビートたけし周防正行EXILEのHIROら約700人が参列した[17]
格闘技との関わり

元プロレスラーのアントニオ猪木とは、1992年(平成4年)頃に知り合う。高校時代の後輩で芸能事務所ケイダッシュとプロレス団体UFO社長だった川村龍夫新右翼活動家の野村秋介と猪木のトラブルの仲介を頼まれたのがきっかけだった[18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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