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出典検索?: "百済語"
扶余系百済語
話される国百済
地域朝鮮半島
消滅時期7世紀 - 10世紀
言語系統扶余語族
扶余系百済語
言語コード
ISO 639-3xpp
'"`UNIQ--templatestyles-00000004-QINU`"'Linguist List ⇒xpp
Glottologなし
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韓系百済語
古百済語
話される国百済
地域朝鮮半島
消滅時期7世紀 - 10世紀
言語系統韓系諸語
韓系百済語
言語コード
ISO 639-3pkc
⇒pkc
Glottologpaek1234[1]
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百済語(くだらご)は、朝鮮半島の百済(4世紀半ば[2] - 660年)で話されていた言語である。百済の建国神話は、百済王族は扶余出自との伝承をもつ[3]。そのため、百済王族は扶余系の言語を話していたとみられる(扶余系百済語)。一方、百済の民衆は三韓の言葉(韓系諸語)を話していたとみられる(韓系百済語)。 今言語服章略與高麗同 つまり言語や服装などが高句麗とおおよそ同じだと記している。なお新羅の言語は音節が通常子音で終わる閉音節なのに対して、高句麗と百済そして倭では母音で終わる開音節だったと考えられている[4]。王姓扶余氏,号於羅瑕,民呼為?吉支,夏言並王也。妻号於陸,夏言妃也。 ? 周書、異域伝百済条 『魏書』も『梁書』の記述を踏襲したが、『周書』は、百済王の姓は扶余で、自ら「於羅瑕」と称していたこと、一方民衆はこれを「.mw-parser-output .jisx0212font{font-family:"Hiragino Sans Pr6N","Toppan Bunkyu Gothic","Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ Pr6N W3","A-OTF 新ゴ Pr6N R","源真ゴシック Regular","源ノ角ゴシック JP Normal","Source Han Sans JP Normal","Noto Sans CJK JP DemiLight","Noto Sans CJK JP DemiLight","小塚ゴシック Pr6N R","KozMinPr6N-Regular","メイリオ","Meiryo","Meiryo UI","游ゴシック","游ゴシック体","VL Pゴシック","MS Pゴシック","MS PGothic","小塚ゴシック Pr6N M","小塚ゴシック Pr6N","KozGoPr6N-Medium","A-OTF 新ゴ Pr6N","Arial Unicode MS",Code2000}?吉支」と呼んでおり、どちらも王の意味だということを特記している。李基文は、この呼称の違いは王族をはじめとする支配層と民衆を中心とする被支配層とで言語が異なる二重言語国家だったことを示すものであり、この二重言語状態は高句麗と同じ扶余系言語を話す人々が韓系の言語を話す馬韓の住民を征服したことによって生じたと推定した。この推定に基づけば、『周書』以前の史書が百済の言語を高句麗とほぼ同じと記したのは、支配層の言語である扶余系百済語の方に注目したためであるということになる[5]。 「?吉支」は『日本書紀』では「コニキシ・コキシ」であらわれ、河野六郎が「k?n ki?i」を再建したように中期朝鮮語「kh?n k?ic?」に繋がる。「妃」は『日本書紀』では「ヲリケ・オリケ」であらわれるが、これらは「於陸」「於羅瑕」とともに後代の韓語に反照形をもたない。河野六郎は、百済が王族(扶余系言語)と民衆(韓系言語)の二重言語国家だったと指摘している[6]。 『三国史記』は百済語について以下の情報を示す[6]。悦城県本百済悦己県 ? 三国史記、巻三十六潔城郡本百済結己郡 ? 三国史記、巻三十六赤鳥県本百済所比浦県 ? 三国史記、巻三十六 「城=己」は、上代日本語に「キ=城」として借用されたが、百済地域にのみにみられる語である[6]。「赤」をああらわす「所比」は高句麗地名「沙伏・沙非」と音形上の類似を示しており、上代日本語の「ソホ=赤土」「サビ=錆」と比較されてきた[6]。李基文は、は百済語の「所比=赤」、高句麗語の「沙伏・沙非=赤」を扶余系語彙と看做している[6]。赤城県本高句麗沙伏忽 ? 三国史記、巻三十赤木[一云沙非斤乙] ? 三国史記、巻三十七
史料