百済観音
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百済観音像のレプリカ、新納忠之介作、大英博物館蔵百済観音像

百済観音(くだらかんのん)は、奈良県斑鳩町法隆寺が所蔵する飛鳥時代(7世紀前半 - 中期)作の仏像(木造観音菩薩像)である。日本の国宝に指定されている(指定名称は「木造観音菩薩立像(百済観音)1躯」)。日本における木造仏像彫刻の古例として貴重であるとともに、大正時代以降、和辻哲郎の『古寺巡礼』、亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』などの書物で紹介され著名になった。
像の概要百済観音像模造(新納忠之介作、東京国立博物館蔵)
像高

210.9cm(『特別展百済観音』図録等による。「209.4cm」とする資料もある[1])。
制作年代

飛鳥時代、7世紀前半?中期とするのが通説[2]
作者

作者は不明[3]。名称と伝承から外国伝来と考えられていたが、使用材は像身はクスノキ、水瓶(すいびょう)と蓮華座がヒノキで、日本国内産であることから、日本で制作されたものと見られている[4]
像容

平面五角形の反花座(かえりばなざ。ハスの花を伏せたような形の台座)に直立する。通常の仏像に比べて著しく痩身で頭部が小さく、8頭身に近い。右腕は肘でほぼ直角に曲げ、前膊(下腕)を観者の方へ向けて水平に突き出し、掌を上へ向ける(持物はない)。左手は垂下し、肘を前方に軽くに曲げて手の甲を観者の方へ向け、水瓶(すいびょう)を持つ。

上半身には僧祇支、下半身には裳(巻きスカート状の衣服)を着け、天衣(てんえ。仏像や天人像が身につけている薄く細長い布のこと)をまとう。天衣は大腿部正面でX字状に交差し、両腕にかかり、両体側に垂下している。

頭髪は髻(もとどり)を結い、両肩に長く垂れ下がっている。宝冠、首飾、臂釧(ひせん)、腕釧(わんせん)などの装身具を付け、これらは銅製透かし彫りの別製とする。光背は宝珠形の頭光(ずこう)で、中央部に八葉蓮華を表し、その周囲には同心円状の文様帯があり、その外側の周縁部には火焔文様を表す。光背支柱は竹を模した木製で、光背基部には山岳形の装飾がある。台座は前述の五角形の反花座の下に2段の框(かまち)がある[5]
構造材質

頭・体の根幹部分、さらには足下の蓮肉(台座の内側の部分)とその下の2つの?(ほぞ)までを含んでクスノキの一材から彫り出した一木造である(飛鳥時代の木造彫刻はほとんどがクスノキ製)。両腕の肘から先、頭上の髻、体側に垂れる天衣などを別材矧ぎ付けとする。左手に持つ水瓶も別材でこれはヒノキ材製である。像表面には乾漆(に木粉や針葉樹の葉の粉などを混ぜたもの)を盛り上げて細部を仕上げている。像表面には彩色を施すが、剥落が多く、当初の彩色は判然としない。像内部は胸以下に内刳り(像の重量軽減や干割れ防止などのために内部を削って空洞にすること)を施す。X線写真によれば、本体側面に縦の矧ぎ目があり、一木で制作した像をいったん前後に割り放し、内刳りを施したものと見られる[6]
所在

法隆寺大宝蔵院の百済観音堂に安置する。もとは金堂の北面に安置されていたが、明治時代後期から昭和時代初期には帝国奈良博物館(後に奈良帝室博物館と改称、現奈良国立博物館)に寄託されていた(同館の開設は1895年)[7]。昭和16年(1941年)に寺内に大宝蔵殿ができてからはそちらに移され、平成10年(1998年)に大宝蔵院(前述の大宝蔵殿とは別の建物)が完成してからはそちらへ移された[8]
文化財指定

明治30年(1897年)12月28日、「観世音菩薩乾漆立像(伝百済人作)1躯」として、古社寺保護法に基づく国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定[9]。昭和26年(1951年)6月9日、「木造観音菩薩立像(百済観音)1躯」として文化財保護法に基づく国宝に指定された。
法隆寺の記録と伝来・旧蔵説

法隆寺の根本史料である天平19年(747年)の『法隆寺資財帳』には百済観音に相当する仏像についての記載はない。

11世紀後半成立の『金堂日記』には、当時法隆寺金堂内にあった仏像に関する詳細な記録があるが、ここにも百済観音に関する言及はない[10]。鎌倉時代の法隆寺の僧・顕真による『聖徳太子伝私記』は像名を記しては百済観音には触れていない[11]

この両記録の不記に対して、東野治之は、法隆寺旧蔵説を唱え、『法隆寺資財帳』は菩薩ないし天部の像についての総計記載と内訳が脱落していて、様式は金銅の仏像や灌頂幡と類似しているので、この脱落部分に記載されていたとする。承暦2年の『金堂日記』は、金銅像の盗難が多かったことを懸念して作成された金銅の仏像の目録であるとして、木造の四天王像や菩薩像が記録されていないとする[12]

百済観音に該当すると思われる像の存在が記録で確認できるのはようやく近世になってからである。元禄11年(1698年)の『法隆寺諸堂仏躰数量記』に「虚空蔵立像 長七尺五分」とあるのが、像高からみて百済観音に当たると推定され、これが百済観音の存在を記録する最古の文献とされている。このため、作風の違いもあり、造像当初から法隆寺にあったものではなく、後世、他の寺院から移されたものとの説がある。いつ、どこの寺院から、いかなる事情により移されたかについては諸説あるが、正確なことは不明である[10]

『法隆寺諸堂仏躰数量記』はこの「虚空蔵菩薩像」を「百済国から渡来した天竺(インド)製の像である」としている。延享3年(1746年)、法隆寺の僧・良訓(りょうきん)が著した『古今一陽集』にも「虚空蔵菩薩」とあり、「この像の由来は古記にはないが、古老の伝えるところでは異国将来の像である」と述べていて、当時すでにこの像の由来は不明であったことがわかる。この像の旧所在については飛鳥の橘寺からの移送とする説[11]。15、6世紀に荒廃した法隆寺に、斑鳩の移設前の中宮寺から、相当数の寺宝が法隆寺に移された(良訓『古今一陽集』)そのうちの1つと推定する高田良信(法隆寺208世管主)の説[13]、などがある。だが、いずれも確証はなく、本像がいつ、どこで、誰によって造られ、どこの寺に安置されていたものか、正確なことは全く不明である[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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