百姓一揆
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一揆(いっき)とは、日本歴史において、武士農民などが一致した目的のために組織した集団、およびその行動を意味する用語。語源は「揆(やり方、手段)を一にする」で、『孟子』に由来する[要出典]。なお、西洋史ではドイツ語のPutschの訳語として使われることがある(カップ一揆や、ミュンヘン一揆など)。
概要
研究史

一揆の研究は、中世の一向一揆土一揆などから始まったため、主として民衆の一揆を対象とし、領主から禁じられた民衆の結合・暴動というイメージで捉えられていた[1]。そのため、武士の結合は「党」(肥前松浦党や紀伊国の隅田党など)と呼ばれ、一揆とは異なる継続的な政治的組織とされた。

その後、社会史の分野で勝俣鎮夫らが、中世の一揆は反権力的なものに限られず、一味神水などの作法・儀礼によって結ばれた集団を指すと主張した[1]。同様に、近世の百姓一揆についても、武器が携行・使用された例はほとんど見られないことがわかっている[2]。こうした一揆作法論の登場を受け、一揆自体のイメージも変わりつつある。
歴史

日本においては平安時代には単に同一であるという意味で使用されていた[3]。院政期には延暦寺東大寺興福寺など、寺の僧が集まって決議を行い、これを一揆契約と称した[1]。例えば元暦元年(1184年)には永久寺で「満山一揆之起請」がなされたという史料がある[1]

鎌倉時代には「心を一つにする」「同心する」といった意味合いで使われ[3]、「一揆」は動詞的に用いられていた[4]。また、同時代には易占の結果や意見が一致するという用例も見られた[5]。鎌倉時代になっても一揆が組織体という捉え方は希薄で、一つになっていること、同心していることを象徴的に示す意味が強かった[1]

こうした状況は南北朝時代に大きく変化し、寺社、武家、村落など様々な形で組織としての一揆が登場するようになった[1]。武士の一揆としては、文和4年(1355年)2月25日の足利尊氏近習馬廻衆連署一揆契状のように足利尊氏の親衛隊が結んだような軍団の一揆がある[1]。また、惣領庶子の和合や団結等の盟約、惣領家の推戴や牽制の目的で一族一揆と呼ばれる一揆が結ばれることがあった[1]。また、中小の武士層が地域集団を結成した国人一揆もみられた[4]

たとえば、肥前国の松浦党は南北朝時代には上松浦党と下松浦党に分かれたが、このうち下松浦党の応安6年(1373年)、永徳4年(1384年)、嘉慶2年(1388年)、明徳3年(1392年)の一揆契諾書が現存しており、足利将軍家への忠節、争いの話し合いでの解決、夜盗・強盗・窃盗等の取り締まり、年貢や領地の争いは話し合って多数決で決めることなど取り決め署名を行っている[6]

また、中世の百姓一揆としては、南北朝時代後期の荘園単位の荘家の一揆があげられる[1]。その後、時代が進んで土一揆が登場したが、荘家の一揆が荘園単位だったのに対し、土一揆は京都などの都市で発生した[1]

戦国時代になると新たな形態の武家の一揆が出現し、室町時代後半に出現した一向一揆に加えて法華宗の一揆も出現した[1]。さらに戦国時代には広い地域で武士のほか百姓や寺社などが、有力武士を中心に結合して一揆を行う惣国一揆も発生した[1]。これについて、池上裕子は、「中世と近世の分かれ目は、中世的な一揆の掃滅後、すなわち、1575年8月の一向一揆の終幕にある」とし、今谷明もこれを支持している[7]

江戸時代に入ると仁政と武威という二つの政治理念の下で、人々は暴力を封印し、幕藩領主に恐れながら訴える訴願が有効と考えられるようになった[8]。『編年百姓一揆史料集成』で江戸時代に日本全国で発生した百姓一揆(徒党・強訴・逃散)と打ちこわしを調査したところ、武器の携行・使用があった事例は14件(0.98%)しかなく、14件のうち18世紀に発生したものは1件しかなかったことが明らかになっている[2]。特に江戸初期には要求を通すためには武装蜂起よりも訴願の方が有効と考えられ、暴力・放火・盗みなどを禁じる百姓一揆の作法が創られ遵守されていた[9]

そのため「百姓一揆とは、同時期のアジア・ヨーロッパに例を見ない、江戸時代特有の社会文化であった」という指摘がある[9]。これは、近世日本の世直し一揆や打ち壊しといった民衆闘争は、神道に論理的骨組みをもった説(救世・救済思想といった考え)がなく、権力否定や世直しの方法を生み出すことができなかったため、[10]大塩平八郎の乱のように神道説の上に世直し観念が示されることはあったにしてもそれ自体は運動の原理にはならず[11]、極めて非宗教的、つまり通俗道徳を盾にして支配者を批判するといったスタイルの闘争として組織された結果とされる[11]
中世の一揆
中世

一揆では一般に一味神水という特定の作法や儀礼が行われたが、その非日常性から、一揆の特徴についてこのような儀礼により結び付いた組織である点を重視する学説がある[1][12]。一揆では結集の目的を神に誓約する起請文が書かれ、参加者全員で一揆契状を作成して署名する[12]。この一揆契状を焼いて灰にし、水に溶かして飲む儀礼を一味神水という[12]

南北朝時代になると、武家の組織を指して一揆と呼ぶ事例が増加した。『太平記』では白旗一揆、赤旗一揆、平一揆などの一族一揆が見られ、室町幕府が一揆に対して命令を下す事例も見られる[13]。この頃には荘園の農民が要求を通すために行う「荘家の一揆」という用法も生まれた[13]。また康暦の政変において、管領細川頼之の更迭を求めて将軍御所を包囲した(御所巻守護大名たちは「一揆衆」と表現されている。いずれも武装はしていても戦闘に及ぶことは稀であった。
室町時代の一揆「土一揆」、「徳政一揆」、および「国一揆」も参照

金融の発達により、金融業者である酒屋土倉が富を得るようになると、この借金の棒引きを求めて、武士や浪人を指導層とし、一般庶民が加わった一揆、土一揆、または徳政一揆が頻発することになる[14]。1428年(正長元年)には尋尊によって「日本開白以来、土民の蜂起之初めなり。」と評された「正長の土一揆」が発生している。1450年代から1460年代は特に土一揆が頻発し、三年に一度は発生するようになった[14]


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