百円硬貨
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

松本清張の短編小説およびそれを原作とするテレビドラマについては「百円硬貨 (松本清張)」をご覧ください。

百円硬貨(ひゃくえんこうか)とは、日本国政府発行の貨幣。百円玉(ひゃくえんだま)、百円貨[1]、百円貨幣とも呼ばれる。額面100硬貨である。明治時代の硬貨と異なり法律上の表裏はないが、造幣局では便宜上年号の記された面を「裏」としている。1957年(昭和32年)から1966年(昭和41年)にかけて発行された銀貨2種類と、1967年(昭和42年)以降発行されている白銅貨があり、いずれも法定通貨として有効である。一度の取引において強制通用力を有するのは20枚(2,000円)までである[注 1]
百円銀貨

百円銀貨

品位銀 60%
銅 30%
亜鉛 10%
量目4.8g
直径22.6mm
図柄鳳凰(表面)
旭日・桜花(裏面)
周囲ギザあり
発行開始1957年(昭和32年)
12月11日
製造終了1958年(昭和33年)

百円銀貨

品位 60%
銅 30%
亜鉛 10%
量目4.8g
直径22.6mm
図柄稲穂(表面)
分銅(裏面)
周囲ギザあり
発行開始1959年(昭和34年)
2月16日
製造終了1966年(昭和41年)

1957年(昭和32年)から1958年(昭和33年)にかけて発行された鳳凰の図柄の百円銀貨、および1959年(昭和34年)から1966年(昭和41年)にかけて製造発行された稲穂の図柄の百円銀貨の2種類が存在する。

仕様の変遷は下記の通り。素材(60%、30%、亜鉛10%の組成の銀合金)、直径(22.6 mm)、量目(4.8 g)、周囲のギザは2種類とも同じであり、いずれも法定通貨として有効である。いずれも臨時通貨法により臨時補助貨幣として発行された。

名称発行開始日製造終了年図柄
百円銀貨(鳳凰)1957年(昭和32年)12月11日[2]1958年(昭和33年)表面:鳳凰
裏面:旭日桜花
百円銀貨(稲穂)1959年(昭和34年)2月16日[3]1966年(昭和41年)表面:稲穂
裏面:分銅

これら2種(鳳凰、稲穂)の百円銀貨の品位は.600である。2021年(令和3年)時点での銀相場は、1グラムあたり90?100円で推移している。仮に100円とした場合の百円銀貨に含まれる銀の価格は 100 × 4.8 × 0.6 = 288円となり額面金額を超える。これらの百円銀貨は古銭商による買取の対象となることもある。なお、鋳つぶしたり鋳つぶす目的で集める行為は貨幣損傷等取締法による処罰(1年以下の懲役又は20万円以下の罰金)の対象となる。
百円銀貨(鳳凰)「臨時補助貨幣#昭和30年・32年制定の円単位臨時補助貨幣」も参照

戦後の1957年(昭和32年)12月11日に、初めての百円硬貨として鳳凰を意匠とする百円銀貨が発行された。表面に羽を広げた鳳凰の図柄および「日本国」と「百円」の文字、裏面には旭日を囲む4輪の桜の花の図柄と「100YEN」、製造年が配されている。硬貨では、当時の日本最高額面であった(最高額面の紙幣は、同年に発行された5,000円紙幣)。
百円銀貨(稲穂)「臨時補助貨幣#昭和34年改正の円単位臨時補助貨幣」も参照

鳳凰の図柄の百円銀貨の発行開始年から2年後の1959年(昭和34年)2月16日には量目・品位をそのままに、デザインが稲穂に変更された。表面には稲穂の図柄および「日本国」と「百円」の文字が、裏面には図案化された分銅型に重ねて「100」の数字、その上に元号、下に製造年次が表記されている。なお、この改鋳に合わせて五十円硬貨もデザインが変更となり、デザインは共に一般公募された。製造期間は1959年(昭和34年)?1966年(昭和41年)だが、昭和37年銘(1962年)は製造されていない。

1964年(昭和39年)には東京オリンピックが開催され、それに合わせて100円銀貨のデザインを一部変更した記念貨幣が1964年度(昭和39年度)の通常百円硬貨製造計画8000万枚の枠で製造され、同年9月21日に発行された[4][注 2]その記念貨幣は、表面は聖火と五輪が入ったデザインとなり、裏面については「100」の字体が少々太い他、通常貨幣ではその数字の左右にある横線が記念貨幣では除かれており、「TOKYO 1964」の文字が追加されているデザインとなっている。年号表記は、「昭和三十八年」のように通常貨幣では漢字で統一されている文字が「昭和39年」の様に漢字とアラビア数字が混在したものとなった。

当初は10年間で8億枚を製造する計画であったものの保有量が不足していたうえ、電子工業、写真工業など当時世界的な銀需要が増大していた。アメリカ1965年(昭和40年)から50セント硬貨の銀量を引き下げ、25セント硬貨10セント硬貨を白銅張り銅に切り替えるなど、世界的な銀貨離れの中、日本もこれに倣い1967年(昭和42年)から白銅貨に切り替えられることとなり[5]、稲穂デザインの百円銀貨は一般流通用として日本最後の銀貨となった。なお百円銀貨(鳳凰・稲穂とも)が発行されていた時代には、地方では根強い紙幣需要があったことから、板垣退助の肖像の百円紙幣B百円券)と並行して発行され流通していた。この紙幣が日本銀行から支払い停止になったのは、百円白銅貨の発行後の1974年(昭和49年)であった。「日本の銀貨」も参照
百円白銅貨

百円白銅

素材白銅
品位 75%
ニッケル 25%
量目4.8g
直径22.6mm
図柄桜花(表面)
周囲ギザあり
発行開始1967年(昭和42年)
2月1日


概要「臨時補助貨幣#昭和41年・56年制定の白銅貨幣」も参照

1967年(昭和42年)2月1日[6]に発行開始され、2024年(令和6年)現在も製造発行されている百円硬貨。表面には桜花八重桜)が3輪と上辺に「日本国」、下辺に漢数字で「百円」が配されており、裏面にはアラビア数字の「100」と製造年次がデザインされている。側面にはギザが103本ある。なお、直径(22.6 mm)、量目(4.8 g)は従前発行されていた2種類の百円銀貨と同じである。発行開始当初は臨時通貨法が有効であったため臨時補助貨幣として発行され、1988年(昭和63年)4月の「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」施行後は「貨幣」として引続き発行されている。

同日に発行開始した五十円白銅貨と同じく白銅製(75%、ニッケル25%の組成)であるほか、裏面の額面金額の「100」のアラビア数字の書体も類似したものとなっている。また記念硬貨を除く日本の硬貨(かつて発行されたものも含む)において、製造年の刻印が「昭和42年」のようにアラビア数字表記であるのは五十円白銅貨と百円白銅貨の2種の硬貨のみである。

この硬貨の発行が、自動販売機が昭和40年代に急速に普及した要因として挙げられている[7]。また自動販売機のほか、コインロッカーアーケードゲームカプセルトイなどでもよく使われる硬貨でもある。

造幣局で製造されてから日本銀行に納入される際に用いられる麻袋については、百円硬貨は1袋に4000枚(金額40万円、正味重量19.2kg)詰められる。これは日本の通常硬貨の麻袋の中で重量が最も重い。
歴史

経済成長と自動販売機の普及により百円硬貨の需要が急増した一方で、の工業的使用も増加したことにより銀の不足が生じてきたことから、素材を銀合金から白銅に改めて発行されたものである[8]

この硬貨が五十円白銅貨と共に発行されたことにより、日本の白銅貨は大正時代に発行された十銭白銅貨小型五銭白銅貨以来の復活となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef