百人斬り競争
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百人斬り競争を報じる1937年12月13日の東京日日新聞。写真右は野田毅少尉 、左は向井敏明少尉(常州にて佐藤振壽撮影)

百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、1937年11月から12月にかけての南京戦において、上海派遣軍 第16師団歩兵第9連隊第3大隊副官野田毅少尉と同大隊砲兵小隊長向井敏明少尉が敵兵百人斬りをどちらが先に達成するかを、競争していると報道された話[1]南京軍事法廷では、報道記事が証拠とされ両少尉は死刑の判決を受け、雨花台で処刑された[1]

戦中は前線勇士の武勇談として賞賛されたが、戦後は南京事件を象徴するものとして[2]非難された[3]。戦後、本多勝一の『中国の旅』で紹介され、これに対して鈴木明が『「南京大虐殺」のまぼろし』、山本七平が『私の中の日本軍』で、虚構性を論じたことにより一般に知られるようになった[4]。山本に対して洞富雄が反論した[4]

2003年4月28日、向井敏明の長女、二女、野田毅の妹の遺族三人が原告となって、毎日新聞朝日新聞と執筆者の本多勝一、据えもの斬り競争だったと主張する本多の論稿を含む『南京大虐殺否定論13のウソ』を刊行した柏書房を被告とし、「信憑性に乏しい話をあたかも歴史的事実とする報道、出版が今も続き名誉を傷付けられた」として、東京地裁へ提訴し、出版差し止め、謝罪広告、損害賠償を請求した[5]。2005年8月23日、東京地方裁判所の判決 (土肥章大裁判長)で原告らの請求が棄却され[6][7][注釈 1]、2006年5月24日、控訴審・東京高等裁判所の判決 (石川善則裁判長) で控訴が棄却され[10][注釈 2]、2006年12月22日、上告審・最高裁判所 (今井功裁判長) で上告が棄却された。『当時としては、「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず』『本件日日記事は、両少尉が浅海ら新聞記者に「百人斬り競争」の話をしたことが契機となって連載された』『両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の捜索によるものであるとまで認めることは困難』と認定され、原告敗訴が確定した[12]
当時の報道

戦時中に、以下の記事が報道された。

番号媒体日付主な内容
1東京日日新聞昭和12年11月30日向井少尉と野田少尉が敵兵をどちらが早く百人斬りするか競争している。
無錫から初めて現在65対25(常州でのインタビュー記事)(常州にて29日、浅海、光本、安田)
2東京日日新聞昭和12年12月4日常州出発から丹陽までに数字を更新して86対65。向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右手首に軽傷(丹陽にて3日浅海、光本)
3東京日日新聞昭和12年12月6日「句容入城にも両少尉が最前線に立って奮戦」、89対78(句容にて5日浅海、光本)
4東京日日新聞昭和12年12月13日紫金山攻略戦の際に106対105、野田「おいおれは百五だが貴様は?」向井「おれは百六だ!」10日正午対面しドロンゲームとして新たに150人斬り競争を始めた。11日昼中山陵を眼下に見下す(紫金山麓にて12日浅海、鈴木)?向井、野田の両名が並んでともに撮られた記念写真が紙面に載る。
5鹿児島毎日新聞昭和12年12月16日東京日日新聞の後追い記事
6鹿児島毎日新聞昭和12年12月18日東京日日新聞の後追い記事
7大阪毎日新聞昭和13年1月25日野田少尉が中村硯郎あてに百人斬りを自慢する手紙が届いた。その中で、南京入場までに105人斬ったがその後253人を斬ったこと、『百人斬りの歌』が作られていることが紹介されている。
8鹿児島朝日新聞昭和13年3月20日野田少尉が鹿児島に帰還。374人を斬ったと語った。
9鹿児島新聞昭和13年3月21日野田少尉が374人を斬ったと語った。地元の児童、生徒に百人斬りの競争談をなした。
10鹿児島朝日新聞昭和13年3月22日野田少尉の父伊勢熊氏が息子の戦果(374人斬り)を紹介。(野田少尉、両親、五女とよ子氏の写真が掲載)
11鹿児島新聞昭和13年3月26日野田少尉が神刀館で百人斬りの講演を行った。


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