西暦換算に関する注意
1582年以前に発生した日本の地震の西暦換算については、ユリウス暦であるか、グレゴリオ暦であるかを明記してください。Wikipediaの表記ガイドでは原則としてユリウス暦で表記することになっていますが、『理科年表』など多くの文献ではグレゴリオ暦表記となっており、混乱を避けるために注意が必要です。
詳細は日本の歴史地震の西暦換算を参照してください。
『日本書紀』巻第一の写本, 京都国立博物館蔵, 白鳳地震は巻第二十九.
白鳳地震(はくほうじしん)は、白鳳時代(飛鳥時代後期)の天武天皇13年10月14日(ユリウス暦684年11月26日)に起きた巨大地震。南海トラフ沿いの巨大地震と推定されている。
南海トラフの巨大地震と推定される地震の確実な記録としては最古のものである。白鳳の大地震(はくほうのおおじしん)、白鳳大地震(はくほうおおじしん)[1]、あるいは天武地震(てんむじしん)とも呼ばれる。
記録による土佐や伊予の被害の様相から南海道沖の地震と考えられていたため、白鳳南海地震(はくほうなんかいじしん)とも呼ばれてきたが、発掘調査により、ほぼ同時期に東海道沖も震源域(宝永地震のように南海トラフ全域)となった可能性が推定されている。 白鳳地震は、『日本書紀』に記述があり[2]、有史以来、確かな記録の残る南海トラフ巨大地震と推定される地震としては最古のものである[3]。 なお、『日本書紀』にある最古の地震の記録は允恭5年7月14日(ユリウス暦[J]416年[注釈 1]8月22日、グレゴリオ暦[G]8月23日)のものであるが(允恭地震)、これは「地震」(なゐふる)とあるのみである。また、推古7年4月27日(599年5月26日[J]、5月28日[G])には大和で家屋倒壊の地震被害の記録が登場するが(推古地震)、これらは大和(飛鳥)で大地震であったことを推察するのみであり震源域は特定されていない。 震源域がほぼ判明しているものとしては、白鳳地震の6年前の天武7年12月(679年初頭)の筑紫における水縄断層上で発生したと見られる筑紫地震の記録が登場する。 森博達は『日本書紀』の記述を正格漢文で綴られたα群と、倭音で表記された和化漢文で綴られたβ群とに分類し[4][5]、巻第29、天武紀の地震の記録は全てβ群に属しており、このβ群の記述は日食や彗星など天文現象の記録との整合性から信頼度が高いとされる[6]。 天武天皇13年[注釈 2]10月14日人定(亥時)(ユリウス暦684年11月26日20 - 22時頃[注釈 3]、グレゴリオ暦684年11月29日)、諸国に亘る大地震が発生した。 山崩れ、河涌くとする液状化現象を思わせる記録があり、諸国の郡の官舎、百姓の倉屋、寺塔、神社が多く倒壊した。伊予湯泉(いよのゆ)や、紀伊の牟婁湯泉(むろのゆ)が没れて湧出が止まった。土佐では田畑50余万頃[注釈 4](約12km2)が海中に没した。加えて津波が襲来し、土佐における被害がひどく調を運ぶ船が多数流失した。この様相は昭和南海地震、安政南海地震および宝永地震にも見られた現象であり[7]、田畑の水没は南東上がりの地盤変動によると思われる[8]。 土佐の沈降して海となった地は、江原真伍による土佐市の高岡付近とする説および、今村明恒の高知市東部とする説[1]などがあり、昭和南海地震による類推から高知市東部の可能性が高いが、高岡方面の沈降も否定できないと推定される[9]。田畑の海没面積は安政南海地震と同程度とされ、宝永地震の半分程度とされるが[1]、江戸時代の山内氏入国以降に浦戸湾周辺など各地で新田開発を行ったことを考慮すれば、田畑の海没面積を以て地震による変動量を比較することは困難である[10]。
「最古の地震」
地震の記録