白鳥省吾(しらとり せいご)
誕生白鳥省吾(しろとり せいご)
(1890-02-27) 1890年2月27日
宮城県栗原郡築館町
(現在:栗原市築館)
死没 (1973-08-27) 1973年8月27日(83歳没)
東京都新宿区河田町
墓地多磨霊園
職業詩人
国籍 日本
活動期間1910年 - 1973年
文学活動詩発展
代表作「耕地を失う日」
「殺戮の殿堂」
など
主な受賞歴文化功労者(千葉県)
勲四等瑞宝章(日本政府)
デビュー作『世界の一人』
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白鳥 省吾(しらとり せいご[注釈 1]、1890年2月27日[1] - 1973年8月27日[1])は、日本の詩人・文人。ヒット曲『星影のワルツ』で知られる、詩人で作詞家の白鳥園枝
は二女。この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
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省吾が作る詩は、民衆の内面を描いた物であり、“民衆派詩人”と称されている[2]。ウォルト・ホイットマンの作った詩の翻訳でも著名。
旧制宮城県立築館中学校4年生頃から詩を書くようになる。早稲田大学に入学後、「夜の遊歩」などの詩を収めた詩集『世界の一人』を若山牧水、太田水穂、前田夕暮の仲介で自費出版し、詩人として文壇にデビューを果たす。『世界の一人』は好評を博し、省吾は一躍名声を高める。
早稲田大学英文科卒業後は、『新少年』・『露西亜評論』・『女学生』など、戦前に発行された雑誌の編集者で、詩人の団体「詩話会」の発行する『日本詩集』や、「詩話会」の発行する『日本詩人』の編集委員も歴任する。また、『日本社会詩人詩集』を福田正夫、賀川豊彦、加藤一夫、百田宗治、富田砕花と共著、『泰西社会詩人詩集』を福田、百田、富田と共訳し、省吾と共に福田・百田・富田の4人が“民衆派詩人”と呼ばれる契機にもなった。
一方で、靖国神社の遊就館をうたった「殺戮の殿堂」(詩集『大地の愛』に1919年収録)は日本を代表する反戦詩として注目を集めた。
晩年は千葉県に居住を構え、亡くなるまで和洋女子大学の教授を勤めていた。音頭、社歌、小唄、民謡、歌謡を多数作詞した他、校歌の作詞でも知られ、その数は日本全国で100校を超える[1]。詩集、評論集、随筆等著書も数多く、日本全国に建立された文学碑も30基を超える。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
経歴
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1890年2月27日 - 宮城県北部栗原郡築館町(現在:栗原市築館)で生まれる[1]。
1902年 - 地元の宮城県立築館中学校(現・宮城県築館高等学校)に入学(1907年卒業[1])。
1909年 - 早稲田大学に入学(1913年、同大学文学科英文学科卒業[1])。
1914年 - 第一詩集『世界の一人』を自費出版[1]。
1918年 - 『詩歌』に詩「殺戮の殿堂」を発表。
1919年 - 『日本詩集』の編集委員に就任(1925年まで)。
1920年 - 『日本詩人』の編集委員に就任[1](1926年まで)。
1922年 - 北原白秋と詩論を戦わせ[1]、民謡論に発展していく。『日本社会詩人詩集』を共著し、『泰西社会詩人詩集』を共訳する。
1926年 - 大地社を創設し[1]、自らが主催・企画する詩誌『地上楽園』を出版[1](1938年まで)。金素雲などの若手詩人の育成に努めている。
1928年 - 詩人協会を結成[1]。
1960年 - 西條八十の退任後、日本詩人連盟会長となる。
1961年 - 日本農民文学会会長に就任[1]。
1962年 - 日本歌謡芸術協会会長に就任[1]。日本民謡協会から文化章を受賞する[1]。
1963年 - 千葉県から文化功労者として認定される[1]。
1965年 - 築館町名誉町民および栗原郡名誉郡民となる[1]。日本詩人連盟会長となる[1]。
1968年 - 勲四等瑞宝章授与。
1973年8月27日 - 食道癌のため東京女子医科大学病院で逝去。