白鳥決定
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戊辰戦争に際して発生した事件については「仙台藩#戊辰戦争の敗北と北海道開拓」をご覧ください。

白鳥事件
正式名称白鳥警部射殺事件
場所 日本札幌市南6条西16丁目
日付1952年昭和27年)1月21日 (夜)
攻撃側人数1(実行犯)
武器拳銃
死亡者1
被害者白鳥一雄警部
謝罪中核自衛隊に所属していたTによる謝罪。主犯・実行者、関与が疑われた日本共産党による謝罪はなし。
影響主犯格とされた村上国治の再審請求の特別抗告に関連して、いわゆる「白鳥決定」が判示された。
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白鳥事件(しらとりじけん)は、1952年昭和27年)1月21日北海道札幌市で発生した、日本共産党による警察官射殺事件である。.mw-parser-output .toclimit-2 .toclevel-1 ul,.mw-parser-output .toclimit-3 .toclevel-2 ul,.mw-parser-output .toclimit-4 .toclevel-3 ul,.mw-parser-output .toclimit-5 .toclevel-4 ul,.mw-parser-output .toclimit-6 .toclevel-5 ul,.mw-parser-output .toclimit-7 .toclevel-6 ul{display:none}
概要

実行犯と目された人物らは日本共産党幇助により国外逃亡したものの、日本共産党札幌軍事委員会[注釈 1]委員長であった村上国治が主犯格として逮捕され、1963年(昭和38年)10月17日に懲役刑が確定した[2][3]

しかし、警察捜査の過程での証拠捏造自作自演を指摘する声が根強く、日本共産党による冤罪キャンペーン松本清張の『日本の黒い霧』での推論、当局による証拠捏造疑惑などにより一般の間でも冤罪の声が強まった[1][4]

受刑者となった村上は無罪を訴えて1965年(昭和40年)に再審請求を行った。これに対する審理においては村上の一部主張が認められたものの、村上の関与を裏付ける新たな証拠が検察側から提出され、最終的に村上の特別抗告最高裁判所によって1975年(昭和50年)に棄却された[5]

再審制度においても『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用されるとする判断をこのとき最高裁判所が下したことから、以後確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じれば再審を開始できるようになった。この判断は事件の名をとって「白鳥決定」と呼ばれる。
事件の経緯

1952年(昭和27年)当時、「51年綱領」の採択を経て武装闘争路線を採っていた日本共産党[注釈 2]による警察官襲撃事件が、全国で相次いでいた。党札幌委員会では委員長の村上国治や副委員長のSが軍事方針を立て、「時間があり、頭も悪くない」北海道大学の学生らを中心に中核自衛隊を組織。列車運転業務妨害事件(赤ランプ事件)や検事・市長宅への投石事件などを起こしていた[7]。これに対し、札幌市警察警備課課長・白鳥一雄警部は、市内の丸井百貨店で開催されていた丸木位里・赤松俊子の原爆の図の展示会を「占領軍の指示」として中断させたほか、ビラまきや座り込みデモを行う共産党員を多数検挙し、「弾圧の急先鋒」として党関係者などから敵視されていた[8][9][10][11][12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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