白鳥の湖
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白鳥の湖
Лебединое озеро
『白鳥の湖』オデットと王子のパ・ド・ドゥ
プティパ=イワノフ版
構成3幕4場
振付M・プティパL・イワノフ
作曲P・チャイコフスキー
編曲R・ドリゴ
台本V・ベギチェフ、V・ゲリツェル(M・チャイコフスキー改訂)
美術M・I・ボチャーロフ、H・レヴォット[1]
初演1895年1月15日
ロシア旧暦1月27日)
マリインスキー劇場
主な初演者【オデット/オディール】P・レニャーニ
【王子】P・ゲルト
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音楽・音声外部リンク
バレエ『白鳥の湖』全幕

バレエ『白鳥の湖』(全幕)
キーロフ・バレエ出演、K・セルゲエフ(英語版)他改訂振付、V・フェドートフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団演奏)
ワーナー・クラシックス(英語版)公式YouTubeより

『白鳥の湖』(はくちょうのみずうみ、 : Лебединое озеро, : Le Lac des cygnes, : Swan Lake)は、ピョートル・チャイコフスキーが作曲したバレエ音楽作品20)、およびそれを用いたバレエ作品である[2]

本作は、チャイコフスキーが初めて発表したバレエ音楽である[注釈 1]。1877年にモスクワボリショイ劇場で初演された際はあまり評価が得られなかったが、チャイコフスキーの没後、振付家マリウス・プティパレフ・イワノフが大幅な改訂を行い、1895年にサンクトペテルブルクマリインスキー劇場で蘇演した[1]。現在上演されている『白鳥の湖』のほとんどは、プティパ=イワノフ版を元としている[1]

本作は、ドイツを舞台に、悪魔呪い白鳥に姿を変えられた王女オデットと、王子ジークフリートとの悲恋を描いた物語である[3][4]クラシック・バレエを代表する作品の一つであり、同じくチャイコフスキーが作曲した『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』と共に「3大バレエ」とも呼ばれている[5]
上演史
創作の背景初演版の舞台デザイン

1875年の春、チャイコフスキーは、ボリショイ劇場からバレエ音楽『白鳥の湖』の作曲を依頼された[6]。当時のバレエ音楽は、バレエ専門の作曲家が手掛ける職人的な仕事であり、オペラ交響曲に比べて芸術的価値が低いとみなされていた[7][8]。チャイコフスキーはすでにオペラや交響曲の分野で成功を収めていたが、以前からバレエ音楽に興味を持っていたこともあり、作曲を承諾した[8]。チャイコフスキーは友人のリムスキー=コルサコフに宛てた手紙で、「この仕事を引き受けたのは一つにはお金のためと、もう一つは長い間この種の音楽を書いてみたかったからだ」と書いている[8]

『白鳥の湖』の創作過程については不明な点が多いが、台本は、ボリショイ劇場の管理部長であったウラジミール・ベギチェフと、ダンサーであったワシリー・ゲリツェルが手掛けたとされる[8][9]。また、チャイコフスキーは作曲に当たり、振付家のウェンツェル・レイジンゲル(英語版)と打ち合わせを行っていたと推測される[10]。チャイコフスキーは1875年の夏に作曲を始め、翌1876年の春に完成させた[11]
初演(1877年・レイジンゲル版)初演者の一人であるA・ソベシチャンスカヤ

1877年3月4日(ロシア旧暦2月20日)、ボリショイ劇場において、レイジンゲル振付による4幕のバレエ『白鳥の湖』が初演された[12]。 主演のオデット役(オディール役との一人二役)はダブルキャストで、初日から3回はペラゲーヤ・カルパコワが、4回目はアンナ・ソベシチャンスカヤが演じた[注釈 2][13][14]。 本当であれば、主役のオデットを演じる予定だったバレリーナは、アンナ・ソベシチャンスカヤだったが、モスクワの高官からの結婚を承諾した後、プレゼントされた宝石をすべて売却し、仲間のダンサーと駆け落ちしたと告発され、解任されてしまった。

この公演は、振付・舞台美術・ダンサー・指揮者などの水準が低かったことや、従来のバレエ音楽とは異なるチャイコフスキーの高度な楽曲が観客に理解されなかったことから、失敗に終わったというのが通説である[15]

作曲家の弟、モデスト・チャイコフスキーは、「作品の貧しさ、優れたダンサーの不在、バレエマスターの想像力の弱さ、そして最後にオーケストラ……これらすべてが相まって、(チャイコフスキーは)失敗の責任を他人に負わせることができたのだ」と記している[16]

しかし、完全な失敗だったという説には疑問が呈されており、実際には観客の評判は賛否両論であったこと、初演以降も繰り返し上演されており一定の人気を集めていたこと、などが指摘されている[17]

レイジンゲル版『白鳥の湖』は41回上演されたが、1883年1月の上演を最後にボリショイ劇場のレパートリーから外されてしまった[18]。その背景には、当時のボリショイ劇場で経費や人員の削減が進められていたという事情があると考えられている[18]。その後、1888年プラハで第2幕の抜粋上演が行われるなど、再演の試みはあったものの、本格的な全幕復活上演は、後述するプティパ=イワノフ版まで待たなければならなかった[19]

なお、初演版に関しては、オディールが踊る「黒鳥のグラン・パ・ド・ドゥ」の追加曲にまつわるエピソードが有名である[13]。第2キャストとして主演したソベシチャンスカヤは、自分の見せ場を増やすため、レオン・ミンクスに追加の楽曲を作らせたが、そのことを知ったチャイコフスキーは猛反対し、自ら作った新曲を挿入した[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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