白鳥の歌
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この項目では、フランツ・シューベルトの歌曲集について説明しています。その他の用法については「白鳥の歌 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

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『白鳥の歌』(はくちょうのうた、Schwanengesang)D957/965aは、フランツ・シューベルトによる遺作作品による歌曲集。3人の詩人による14の歌曲からなるが、自身が編んだ『美しき水車小屋の娘』、『冬の旅』とは異なり、『白鳥の歌』は彼の死後に出版社や友人たちがまとめたものであり、歌曲集としての連続性は持っていない。新シューベルト全集では『レルシュタープとハイネの詩による13の歌曲』 D957と『鳩の使い』 D965aと分けられており[1][2]、そもそも『白鳥の歌』という歌曲集は存在しない扱いになっている。

なお、シューベルトの『白鳥の歌』としては他人の手が入った歌曲集のほかに自身の手による同名の歌曲が2曲あり、それについても解説する。
目次

1 成立の経緯

1.1 レルシュタープ

1.2 ハイネ

1.3 ザイドル

1.4 出版


2 構成

2.1 レルシュタープの詩による歌曲(7 Lieder nach Gedichten von Ludwig Rellstab)

2.2 ハイネの詩による歌曲(6 Lieder nach Gedichten von Heinrich Heine)

2.3 ザイドルの詩による歌曲(Ein Lied nach Gedichte von Johann Gabriel Seidl)


3 編曲

4 シューベルトの「真筆」の『白鳥の歌』

5 脚注

6 参考文献

7 外部リンク

成立の経緯

冒頭に記したように、3人の詩人による歌曲から成立しているが、使用された詩とシューベルトの出会いはさまざまである。
レルシュタープ

ルートヴィヒ・レルシュタープの詩による7曲の歌曲は、もともとはシューベルトに作曲が依頼されたものではなく、実はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに依頼したものがベートーヴェンの死により、何らかの経緯でシューベルトにまわってきたものであった。

レルシュタープとベートーヴェンの間柄と言えば、一般にレルシュタープがベートーヴェンの没後に、ピアノソナタ第14番を「月光」と「命名した」ことが挙げられるが、実際には、それ以前に「ルドラムスの巣窟」というウィーンの名だたる著名人の夕食会に、ともにその名を連ねている[3]。ただし、実際に接触があったかどうかは定かではない。その後、時期ははっきりしないもののレルシュタープは『白鳥の歌』に使われた7曲分を含む詩集をベートーヴェンに送り、歌曲の作曲を依頼した[4]。ベートーヴェンが送られた詩に実際に目を通したどうかは不明であるが、間もなく1827年3月26日にその生涯を終えたためレルシュタープの詩による歌曲は作曲されず、レルシュタープも送った詩集はそのまま埋もれてしまったと考えていた[5]

ところが、『白鳥の歌』が世に出た際、レルシュタープは自分がベートーヴェンに送ったはずの詩にシューベルトが作曲していることに驚く[6]。さらに、ベートーヴェンの信の置けない秘書アントン・シンドラーからレルシュタープが詩に添えた添え書きを渡され、詩がベートーヴェンからシューベルトのもとに渡った経緯の説明を受けた[6]。シンドラーの説明では、ベートーヴェンは詩を受け取ったものの健康状態が芳しくなかったため、シューベルトに作曲を委ねたというが、その真偽は全く不明である[6]。ともかく、詩はシューベルトのもとにわたって、シューベルトはレルシュタープの詩による少なくとも8曲からなる歌曲集の成立を目指して作曲に取りかかった[7]。しかし、実際に完成したのは『白鳥の歌』所収の7曲にとどまり、歌曲集のトップに据える予定であった『生きる勇気』D937 は未完成に終わった[7]。『生きる勇気』が完成しなかったことは、『白鳥の歌』の構成に少なからぬ影響を与えることとなる。
ハイネ

ハインリヒ・ハイネの詩による6曲の歌曲は、いずれも1826年出版の『歌の本(ドイツ語版)』に拠るものである。

従来「シューベルティアーデ」と呼ばれる内輪な音楽会を開いていたシューベルトの友人たちは、「シューベルティアーデ」が最終回を迎える直前の1828年1月12日に読書会を開き、そこでシューベルトは『歌の本』と出会う[8]。『歌の本』から選び出された詩による6曲の歌曲は8月ごろにはすべて完成し[9]、10月に入ってライプツィヒの出版社プロープストに歌曲の出版を要請する手紙が出されている[10][11]。シューベルトが当時、金銭的に困窮していたからであった[11]

なお、ハイネはシューベルトが自分の詩に作曲したことは耳にしており、のちにヨハネス・ブラームスの師となるエドゥアルト・マルクスゼンに宛てた1830年11月18日付の手紙の中で、「死の直前に私の詩にすばらしい音楽を作曲をしたそうだが、残念ながら私はまだ聴いていない」と記している[12]


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