白馬岳
丸山から望む白馬岳と山小屋(夏)
標高2,932.24[1] m
所在地 日本
長野県北安曇郡白馬村
富山県黒部市、下新川郡朝日町[2]
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度45分31秒 東経137度45分31秒 / 北緯36.75861度 東経137.75861度 / 36.75861; 137.75861
白馬岳(しろうまだけ、はくばだけ)は、飛騨山脈(北アルプス)北部の後立山連峰にある標高2,932 mの山。長野県と富山県とにまたがり、中部山岳国立公園[3]内にある。 白馬岳は杓子岳、白馬鑓ヶ岳とともに白馬三山と呼ばれている[4]。南に続く後立山連峰の山々とともに、南北に伸びる稜線の両側の傾斜が著しく異なる非対称山稜が発達している特徴的な山容を持つ[注釈 1]。山頂を含む南北700 mの地帯は県境が設定されていない。山頂には一等三角点があり[1]、一等三角点百名山に選定されている[出 2]。 東側の谷筋には冬季の膨大な積雪と周囲の山塊からの雪崩が集積した日本最大の雪渓である白馬大雪渓がある。雪渓の上部は夏期には日本有数の高山植物のお花畑が広がる。白馬大雪渓は日本三大雪渓のひとつとして有名[5]。日本百名山[出 3]、新日本百名山[出 4]、花の百名山[出 5]及び新・花の百名山[出 6]に選定されている。 鑓ヶ岳中腹の標高2,100 m地点には、日本有数の高所にある温泉である白馬鑓温泉があり、白馬大池の北麓には蓮華温泉がある。 雪渓、お花畑、岩場、山の温泉と様々に楽しめる要素があり、交通の便も比較的良いことから、夏季にはたくさんの登山者が訪れて混雑する。夏期の登山者の大半は大雪渓を経由して登るため、夏休みの時期には大雪渓上は長蛇の列となることが多い。 なお、白馬岳山頂は日本郵便から交通困難地に指定されており、通年にわたり地外から当地宛の郵便物を送ることができない[6]。
概要
人間とのかかわり
1883年(明治16年) - 北安曇郡長の窪田畔夫と大町小学校長の渡辺敏ら9名が初登頂した[出 1]。
1893年(明治26年) - 陸地測量部館潔彦技官らにより、山頂に一等三角点が設置された[出 7]。
1894年(明治27年)7月22日午前10時 - ウォルター・ウェストンが蓮華温泉から鉱山道を利用し外国人としての初登頂をした。その著書で、この山名を「オオレンゲ」と記している[出 8]。1913年の再来日時にも登頂した[出 9]。
1895年(明治28年) - 富山藩の漢学者小杉復堂が登頂[出 10]。
1898年(明治31年) - 河野齢蔵、岡田邦松、吉沢秀吉が植物採集を目的に白馬大雪渓から登頂し、シロウマアサツキやタカネバラなどの高山植物を発見した[出 7][出 10]。
1900年(明治33年) - 11歳の松沢貞逸が登頂[出 11]。
1907年(明治40年) - 松沢貞逸が頂上直下の石室を買い取り、その隣に宗教登山に由来しない山小屋(信仰登拝者のための宿泊施設)としては日本最古の頂上小屋(現在の白馬山荘)を建設して本格的な開業をした[出 10][注釈 2]。
1910年(明治43年)夏 - 田部重治が蓮華温泉から登頂[出 12]。
1911年(明治44年) - 冠松次郎が登頂し、祖母谷を下り黒部峡谷に入った[出 13]。
1917年(大正6年) - 東久邇宮稔彦王らが登頂[出 14]。その後久邇宮邦彦王や朝香宮鳩彦王の登頂が新聞などで報道され、多くの登山者が訪れるようになった[出 11]。
1918年(大正7年) - 「白馬岳」を題とする紀行文が尋常小学校6年生の読本に採用され、知名度が全国的規模となる[出 15]。
1920年(大正9年)3月 - 慶應義塾大学山岳部の大島亮吉らによりスキーで積雪期初試登をした[出 1]。