白隠慧鶴
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白隠
1686年1月19日 - 1769年1月18日
白隠慧鶴の自画像(1767年)
諡号神機独妙禅師
正宗国師
生地駿河国
没地駿河国原(現在の沼津市原)
宗派臨済宗
道鏡慧端
弟子東嶺円慈遂翁元盧など
著作『夜船閑話』
坐禅和讃
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白隠慧鶴筆『達磨図』。「直指人心(じきしにんしん)、見性成佛(けんしょうじょうぶつ)」とある

白隠慧鶴(はくいん えかく、1686年1月19日貞享2年12月25日) - 1769年1月18日明和5年12月11日))は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期禅僧は神機独妙禅師、正宗国師。
生涯円窓内自画像 永青文庫蔵。明和元年(1764年)白隠80歳の自画像

駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった商家の長沢家の三男として生まれた白隠の幼名は岩次郎。岩次郎は、15歳で松蔭寺の単嶺和尚のもとで得度し、慧鶴と名付けられた。16歳で沼津大聖寺の息道和尚につかえていたある日、『法華経』を読んでいて、こんなたとえ話の多いお経に功徳があるのかと思った[1]。その後、諸国を行脚して修行を重ね、24歳の時に鐘の音を聞いて見性体験するも増長して、信濃長野県飯山正受老人(道鏡慧端)にあなぐら禅坊主と厳しく指弾され、その指導を受けて修行を続け、老婆に箒で叩き回されて次の階梯の悟りを得る。のちに禅修行のやり過ぎで禅病となるも、白幽子という仙人より「内観の秘法」を授かって回復した[2]。その白幽子の机上には只『中庸』『老子』『金剛般若経』のみが置かれていたという。更に修行を進め、42歳の時にコオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成した。

この経験から禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救った。「内観の秘法」は気功でいう気海丹田式の功法に相当するものであり、またこれは天台小止観と同じとも言っている。他にも「軟酥の法」を教授している[2]

また他の宗門を兼ねて修道すべきではないと戒めている。これは他の宗門を排除するためではなく、それぞれの宗門を修めることがそれぞれに成道することに繋がると捉えているからである。

浄土門は浄土門として認め、真正念仏の人という話もしている。また妙法蓮華の話もしている。

地元に帰って布教を続け、曹洞宗黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を復興させ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた。

現在も、臨済宗十四派は全て白隠を中興としているため、彼の著した「坐禅和讃」を坐禅の折に読誦する。

現在、墓は原の松蔭寺にあって、県指定史跡となり、彼の描いた禅画も多数保存されている。
略歴

1686年 駿河の原宿で生誕。幼名岩次郎
[3]

1700年 地元の松蔭寺の単嶺祖伝のもとで出家する。沼津の大聖寺息道に師事する。

1703年 清水の禅叢寺の僧堂に掛錫するが、禅に失望し詩文に耽る。雲棲?宏の『禅関策進』によって修行に開眼、諸国を遊方する。美濃岐阜県)の瑞雲寺で修行。

1708年 越後新潟県)高田の英巌寺性徹のもとで「趙州無字」の公案によって開悟。その後、信州長野県)飯山の道鏡慧端(正受老人)のもとで大悟、嗣法となる。

1710年 京都の北白川で白幽子という仙人に「軟酥の法」を学び、禅病が完治する。

1716年 諸方の遊歴より、松蔭寺に帰郷。

1763年 三島(静岡県)の龍澤寺を中興開山

1769年 松蔭寺にて示寂

思想

彼は初めて悟りの後の修行(悟後の修行)の重要性を説き、生涯に三六回の悟りを開いたと自称した。その飽くなき求道精神は「大悟十八度、小悟数知らず」という言葉に表象され、現代に伝わっている。また、これまでの語録を再編して公案を洗練させ、体系化した。中でも自ら考案した「隻手音声」と最初の見性体験をした「趙州無字」の問いを、公案の最初の入り口に置き、以後の修行者に必ず参究するようにさせた。

また、菩提心(四弘誓願)の大切さを説いた。菩提心の無き修行者は「魔道に落ちる」と、自身の著作に綴っている。彼は生涯において、この四弘誓願を貫き通し、民衆の教化および弟子を育てた。
禅画と墨蹟

白隠はまた、広く民衆への布教に務め、その過程で禅の教えを表した絵を数多く描いている。その総数は定かではないが、1万点かそれ以上とも言われる[4]。絵の製作年がわかる最も早い作は享保4年(1719年)の「達磨図」(個人蔵)で、縦220cm以上の大作「達磨図」は寛延4年(1751年)の作である(豊橋市正宗寺)。代表作の一つ「大燈国師像」(永青文庫蔵)では、紙面には下書きや描き直しの跡が残り、このような拙によって巧を超えていった技法は、「後の曾我蕭白などに強い感銘を与えた」と想像されている[5]。書家の石川九楊は、白隠の墨蹟について「書法の失調」を捉え、「『書でなくなることによって書である』という逆説によって成り立っている書ならざる書」と評している[6]。白隠の書画の代表的コレクターに、細川護立山本発次郎がおり、前者のコレクション永青文庫に収められ、後者は大阪中之島美術館寄贈されている。
白隠と俳句

白隠禅師坐禅和讃」は誰もが認める白隠の代表作である。ただ武家に向いていた「臨済禅」を庶民の上にもたらした白隠であるから、詩歌よりも俳句が多く遺されているかと言えば、白隠の作は意外と少ない。その幾つかを紹介する。

『松に梅 奥の社は 問はすとも』- 五升庵蝶夢の「類題発句集」安永3年

『来てみれば 浮世の夢の 寝覚哉』- 五升庵蝶夢の「俳諧名所小鏡」寛政7年

『よし芦の 葉を引敷きて 夕涼』- 菅原重厚の「句双紙」天明6年

『口〆て 思ふ事なし 春?』- 菅原重厚の「句双紙」天明6年[7]

主な弟子門下たち

東嶺円慈(1721 - 1792)誰もが認める白隠の一番弟子。三島龍沢寺を開創。

遂翁元盧(1717 - 1789)東嶺と双璧の白隠の弟子。白隠から松蔭寺を受け継いだ。お酒を好んだと言われる。

峨山慈棹(1727 - 1797)多くの弟子を育て、白隠禅の法系を現在まで伝えた。隠山惟?卓洲胡僊も峨山の弟子である。

斯経慧梁(1722 - 1789)専門僧堂として妙心寺派の円福僧堂を京都の八幡に開単した。

快岩古徹 古月禅材のもとで大休と修行し、後に縁あって白隠のもとで大悟した。山梨県長光寺に住した。

大休慧ム(1715 - 1774)白隠のもとで大悟し、東福寺派の岡山の宝福寺に住した。

霊源慧桃(1721 - 1785)白隠禅師のもとで長く修行し、天龍寺僧堂へ出世した。

天倪慧謙(1723 - 1794)東福寺派僧堂の常栄寺の第十世。白隠十哲の一人。

提洲禅恕(1720 - 1780)伯耆(鳥取県)の人。白隠の著作で禅語の語録『荊叢毒蘂』の編集に当たった。


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