白豪主義
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白豪主義/白濠主義(はくごうしゅぎ、: White Australia policy)は、オーストラリアにおける白人最優先主義とそれに基づく非白人への排除政策である。狭義では1901年の移住制限法制定から1973年移民法までの政策方針を指す。広義では、先住民族アボリジニタスマニア州オーストラロイド系住民やカナカ人などのメラネシア系先住民[1]への迫害や隔離など、オーストラリアにおける人種差別主義の歴史全般を指す。
歴史
先住民政策

白豪主義は、大英帝国1788年オーストラリア大陸植民地化して、アボリジニを征服・迫害したことに始まる。入植者によって、多くのアボリジニの人々が免疫の無い病気に晒され、また、スポーツハンティングの延長としてアボリジニを殺害したケースすらあった。タスマニアでは一列に並んで島を縦断し、拉致確保した先住民以外は殲滅されたともいわれ、19世紀後半には純血のアボリジニ・タスマニア島民は絶滅したともいわれる。1870年代にはクイーンズランド州で砂糖産業が成長し、ソロモン諸島バヌアツサモアキリバスツバルなどの太平洋諸島のカナカ人(Kanakas)らが年季奉公として徴募される。また強制連行ないし誘拐もあったとされる(こうした奴隷貿易的行為はBlackbirdingといわれる)。連行されたカナカ人らはクイーンズランドやフィジーの砂糖農園(プランテーション)で労働に従事した。

1920年には、豪政府は先住民族の保護という名の人種隔離政策も行った。これらによりアボリジニ人口は90%以上減少した。1910年頃から1970年代にかけて、アボリジニの子供を親元から引き離し、白人家庭や寄宿舎で養育するという政策も行われた。アボリジニの子供も白人の「進んだ文化」の元で立派に育てられるべきという独善的な考え方に基づくもので、政府や教会が主導して行った。子供のおよそ1割が連れ去られ、結果として彼らからアボリジニとしてのアイデンティティを喪失させることとなった。彼らは「盗まれた世代」(Stolen Generation)と呼ばれている。

他方、白人が住みたがらなかった不毛な乾燥地域である内陸部のアボリジニは、周辺の厳しい自然環境に守られながら、どうにか固有文化を維持し続けた。今日でもアボリジニ文化の史跡は、沿岸部都市より隔絶された内陸地に多く残る。近年のアボリジニ激減に加えて、文字文化を持たなかったことから、文化的痕跡を残さず消滅した部族も多く、彼等の言語や文化の系統を調査する試みは進んでいない。音声的に完全に失われた言語も多く、それらの民俗学的調査は「大半のピースが既に失われたパズル」になぞらえられている。
労働運動と白豪主義

大陸への入植者は、初期は白人、それもイギリスからの移民(主として流刑者)がほとんどであったが、1833年にイギリス帝国が奴隷制を廃止したため、各植民地では労働力が不足する。阿片戦争アロー戦争(第二次阿片戦争)を経て1860年に締結された北京条約で、イギリスや海外の商社が中国人を雇用する権利を承認させたことで、合法的にオーストラリア、アメリカカナダに中国人を入植させることができた[注 1]。また太平天国の乱の影響もあり、オーストラリアには中国系の移民労働者が相次ぐようになる(多くは広東人)。1861年で約39000人(総人口134万8100人のうち2.9%)で、1854年から1858年の5年間では45000人が流入する[3]。北京条約締結同年にニューサウスウェールズ州で反中暴動(Lambing Flat Riots)が起こった。

また、1851年に金鉱が発見され、ゴールドラッシュが始まる。1870年代にはクイーンズランドで、1890年代には西オーストラリアで金鉱が発見され、中国人労働者(苦力)が大陸全土に広がった[4]。それにともなって1870年代以降、中国人をはじめとする外国人労働者に対する労働運動が激化する。地方都市では、アジア系外国人労働者による白人労働者の労働機会の縮小と賃金水準の低下、環境衛生の悪化の原因された[5]。そのため労働環境改善を求める労働運動が白豪主義の圧力団体となっていく。1878年には中国人船員の雇用に対して船員組合がストライキを敢行した。1888年には中国人移住制限法が制定される。1892年にも運送業者組合が大規模な抗議運動を展開した。一方、資本側・経営側は中国人労働者は低コストの労働力となったため、白豪主義に反対していた。農園主らは主に都市部で発生していた移民(中国人)労働者への制限を求めた労働運動に対して、ノーザンテリトリーやクイーンズランドからアジア人を撤退させたら荒れ地になると反論したが、移民制限は法制化されていく。労働運動が激化する中、各地で労働党が形成される。労働党の基本イデオロギーは白豪主義と社会主義であった。また反権威主義や反エリート主義を掲げ、イギリスからの独立を掲げてもいた[6]

また1863年、ノーザンテリトリーが南オーストラリア植民地として編入されると、南オーストラリアは当初日本人を入植させる計画を採り、日本からも真珠貝採取や砂糖農園における技術系労働者が流入した。1898年のクイーンズランドで就労していた日本人は3274人に上った[7]。しかし外国人労働者への排斥運動のあおりを受けて、日本の移住希望者にも「ヨーロッパ言語による書き取りテスト」を課して実質的に流入を阻むようになっていった。
移住制限法(1901年)

1901年にオーストラリアは連邦制となり、同時に移住制限法[5]、帰化法、太平洋諸島労働者法等を成立させ、白豪主義政策が完成していく。連邦政府の最大の問題が移民労働者問題であった。しかし1902年日英同盟に帰結する英国の対日政策においては、ロシア帝国南下からの防衛という意味でも、日本が地政的に重要であったため、英植民地相のジョセフ・チェンバレンは豪連邦初代首相エドマンド・バートンに対して、極東の情勢を配慮することを秘密書簡で要求した[8]


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