.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}白瀬(しらせ) 矗(のぶ)
撮影時期未詳 潮出版社刊、横田順弥『明治の夢工房』より
渾名白瀬中尉
生誕知教
1861年7月20日
出羽国由利郡金浦村
死没 (1946-09-04) 1946年9月4日(85歳没)
愛知県西加茂郡挙母町
所属組織 大日本帝国陸軍
兵科騎兵、輜重兵
最終階級 中尉
配偶者やす
墓所瀬門神社[1]
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白瀬 矗(しらせ のぶ、1861年7月20日(文久元年6月13日[2])- 1946年(昭和21年)9月4日)は、日本の陸軍軍人、南極探検家。最終階級は陸軍輜重兵中尉。幼名は知教(ちきょう)[3]。
「白瀬中尉」と呼ばれることが多い[4][5][6][7][8][9]。 文久元年(1861年)、出羽国由利郡金浦村(現在の秋田県にかほ市)出身[2]。浄蓮寺の住職、白瀬知道・マキエの長男として生まれた[3]。 南極探検以後になって出版した自伝によると、幼年時代は非常にわんぱくだったという。「金浦の浜辺に漁師が捨てた小魚を狙ってきた狐の尻尾をちぎった」「海に潜って300トンもある千石船の底を潜り抜けようとしたが、抜けられずに溺れて死にかけた」「本堂に引っかった凧を取ろうとして落っこちた」のほか、狼退治や150人と血闘を行ったなどと列挙している[3][2]。 8歳(数え年だと9歳[3])の頃に、平田篤胤の高弟ともいわれる医師で蘭学者(漢学者とも)の佐々木節斎の寺子屋に入る[10]。佐々木は読み書きソロバンや四書五経を教え、その他にもコロンブスやマゼランの地理探検、そしてジョン・フランクリン隊の遭難(フランクリン遠征)などの話を聞かせた[11]。白瀬は11歳の頃に佐々木より北極の話を聞き、探検家を志すようになる[3][10]。 このとき佐々木は、白瀬に対し5つの戒めを教えた。 白瀬は18歳頃から守るようになり、生涯この戒めを守り続けたとされる[12]。 明治10年(1877年)、母の実家である山形県山形市七日町にある小学校に入学し、明治12年(1879年)3月に卒業する[13]。同年7月に僧侶となるため上京するが、2か月後(明治12年9月[14])に軍人を目指し日比谷の陸軍教導団騎兵科に入校。同時に幼名の知教という名を矗に改名した[14][13]。 明治14年(1881年)4月、教導団騎兵科を卒業し[14]、輜重兵科に転科して、陸軍輜重兵伍長として仙台鎮台・輜重兵第2大隊付となり[14]、仙台に赴任した。明治15年(1882年)、宇都宮で行われた大演習に騎兵として参加し、児玉源太郎と出会った[13]。 明治20年(1887年)、仙台市二日町の海産問屋の娘「やす」と結婚した[15]。陸軍輜重兵曹長、下副官と進級し、明治25年(1892年)、予備役に編入されると同時に士官適任証を授与された[14]。 明治23年(1890年)、仙台で児玉源太郎と再会し、北極探検への思いを伝えた。すると児玉に「落ち着け」と一蹴され[15]、更に「書生論的空理空論だ」などと断言されたが、「北極探検を志すなら、まず樺太や千島の探検をするように」と薦められた[15]。 児玉の助言に従って千島探検を志すようになり、明治26年(1893年)、郡司成忠[注 1]海軍大尉が率いる千島探検隊(千島報效義会)に加わる[16]。探検隊は千島に到着するまでの間に、暴風雨による遭難で19名の死者を出したが、千島列島に到着した。捨子古丹島に9名、幌筵島に1名の隊員を越冬隊として残し、白瀬・郡司ら7名は、同年8月31日、最終目的地である占守島に到着、同島で越冬した[17]。 明治27年(1894年)の5月、幌筵島の1人が壊血病で死亡した。さらに6月に占守島へ寄港した軍艦「磐城」から「捨子古丹島の9名の内4名死亡、5名行方不明」との情報が伝えられる[18]。 そして、郡司は、軍からの強い要請により、軍艦「磐城」で帰還することになった[18]。郡司は当初、全員を帰還させるつもりであったが、郡司の父である幸田成延が、千島開発を途切れさせないために自分が占守島に残ると強硬に主張した。
生涯
出生と陸軍入隊
酒を飲まない
煙草を吸わない
茶を飲まない
湯を飲まない
寒中でも火にあたらない
千島探検