白滝幾之助
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白滝 幾之助
(しらたき いくのすけ)
生誕
1873年3月17日[1][2]
兵庫県但馬国[1]
死没 (1960-11-25) 1960年11月25日(87歳没)[1][2]
東京都大田区[1]
国籍 日本
著名な実績洋画
受賞1952年(昭和27年) - 日本芸術院賞恩賜賞[1][2]

選出日展審査員[1]
活動期間1898年 - 1953年[1]
影響を受けた
芸術家山本芳翠[2]
黒田清輝[1]

白滝 幾之助(しらたき いくのすけ、1873年明治6年)3月17日[1][2] - 1960年昭和35年)11月25日[1][2])は、兵庫県出身の日本洋画家[1]。作風は写実的作品を発表し続けた[1]目次

1 来歴

2 作品

2.1 出版物


3 脚注

3.1 注釈

3.2 出典


4 外部リンク

来歴

1873年明治6年)3月17日、兵庫県但馬国に生まれる[1]。幼少時に父を亡くし、女手一つで育てられた[1]

1890年(明治23年)、17歳時に鉱山技師を目指して上京[3]、築地の工手学校に入学[1]。1894年(明治27年)、第4回内国勧業博覧会にて「待ち遠し」が入選[1]。褒状を受け有栖川官家に買い上げ[1]。1896年(明治29年)、下宿先で同居していた同郷の和田三造に誘われて山本芳翠の生巧館画塾に入る[3]。後に生巧館画塾が黒田清輝に譲られ、天心道場となった後は黒田清輝に師事[1][3]。同年東京美術学校西洋画科に入学[1]。1897年(明治31年)、東京美術学校卒業[1]。同年白馬会展に「稽古」を出品[1]。この出品作は国民新聞に掲載された[4]

1903年(明治36年)、学習院女子部の築地水交社発卯園遊会で発表される公演の背景画として山本芳翠が下岡蓮杖に依頼した依頼画の制作に幾之助も参加した[5]。この依頼は依頼主である山本芳翠、下岡蓮杖のほか和田三造、北蓮蔵、玉置金司、湯浅一郎などが手伝った[5]

1905年(明治38年)、絵画勉学のためアメリカ合衆国に渡り、更にその後イギリスロンドンフランスパリを巡る[1]。留学中に肖像画に興味を覚え、後の作風に反映された[1]。イギリス在留中の1908年(明治41年)に三井物産ロンドン支店長、三井財閥室町三井家第11代当主の三井高精と知り合う[3]。2人の交流は長く続き、高精が現役を退いて隠居した後、大正末期頃から蒐集を始め、1940年(昭和15年)11月21日より麹町の自宅敷地内で一般公開した日本人・外国人画家の作品約200点を集めた洋画コレクションである三井コレクションを完成させる際にも白滝が協力している[3][6][注釈 1]

1911年(明治44年)帰国[1]。同年第5回文展に出品した「老人肖像」「裁縫」の2点が褒状を得る[1]

1913年(大正2年)、日本水彩画会創立に際し発起者37名に名を連ねる[7]

1920年(大正9年)、第2回帝展に「芍薬」「コンデル博士の像」を出品[1]。この年より帝展審査員をしばしば務めるようになり、以後出品作品が無監査となる[1]。1936年(昭和11年)4月、明治神宮外苑聖徳記念絵画館に奉納された日本画・洋画80枚のうちの一点として「ポーツマス講和談判」を奉納[8]

1952年(昭和27年)、「洋画界に尽くした業績」に対し[9]日本芸術院賞恩賜賞[1][2]

1960年(昭和35年)11月25日、脳軟化症のため東京都大田区の自宅で死去[1]
作品

作品名制作年備考
「待ち遠し」1894年第4回内国勧業博覧会
[1]
「編物をする少女」1895年郡山市立美術館[10][11]
「稽古」1897年[1][4]
「老人肖像」1911年第5回文展[1]


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