白河関
[Wikipedia|▼Menu]

白河の関
松平定信による古関蹟

種類古代関所
所在地福島県白河市旗宿
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度02分49.1秒 東経140度13分43.6秒 / 北緯37.046972度 東経140.228778度 / 37.046972; 140.228778座標: 北緯37度02分49.1秒 東経140度13分43.6秒 / 北緯37.046972度 東経140.228778度 / 37.046972; 140.228778

国指定史跡

.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}白河の関 所在地

白河の関(しらかわのせき)は、古代日本における関所の1つ。奈良時代から平安時代にかけて、から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として歴史上名高く、「みちのく(奥州。現代の東北地方)の玄関口」とされてきた[1][2]

所在地は福島県白河市旗宿に比定されており、白川神社が祀られ、国の史跡に指定されている。当地は下野国(現:栃木県)と陸奥国(現:福島県など)との国境付近[注釈 1]であり、現代でも関東地方と東北地方との境界となっている[1]

白河の関より北に位置する東北地方(または北海道地方も)を「白河以北」「河北」と称することがある[1]

鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに『奥州三関』の1つに数えられる。
歴史
設置

設置時期は明らかでない。『類聚三代格承和2年(835年)太政官符では、「白河・菊多(勿来)の関を設置して以来400余年」と見えることから、9世紀前半の835年当時には「5世紀前半に設置された」と認識されていた[3]

当初、白河関はヤマト政権が北方の蝦夷に対抗するために建立した前線基地であったが、後にヤマトの勢力がさらに北進したことで軍事的意義は小さくなり、陸奥国との国境検問所という役割が残ったという[1]
機能

六国史における白河の初出は718年養老2年)5月2日 (旧暦)陸奥国から「白河」など5郡を分割して石背国を設置するという記事で、その後728年神亀5年)4月11日 (旧暦)には白河軍団の新設[注釈 2]を許可、そして神護景雲3年(769年3月13日には陸奥国大国造道嶋宿祢嶋足の申請によって何らかの功績を果たしたらしい者への賜姓付与が行われ、白河郡では丈部某と大伴部某がそれぞれ阿部陸奥臣および阿部会津臣を授かっている。

また宝亀11年(780年12月22日には陸奥鎮守府副将軍百済王俊哲が賊に囲まれ危機に瀕したが「白河」の神など11神に祈ったところこれを突破できたとして弊社に加えることを許可している。

承和2年(835年12月3日の太政官符(『類聚三代格』)では、俘囚の出入りや不正商品の通過の検問を長門国関(赤間関)と同様に取り締まることが許されている[4]
文学的概念へ

平安時代以降、律令制度の衰退とともにヤマト政権の軍事的要衝としての白河関の機能は解消していったと考えられている[1]。白河関は遠い「みちのく」の象徴として和歌歌枕に起用され、文学的感傷をもたらす存在となった[1]。和歌での初出例は、平安中期の平兼盛が詠んだ「たよりあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと」(「拾遺和歌集」別)とされる[1]

平安末期または鎌倉時代始期の1189年文治5年)、源頼朝奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦の際に、頼朝が白河に達した際に梶原景季に歌を詠むよう命じると、景季は「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだ[1]

江戸時代前期の1689年元禄2年)、俳人松尾芭蕉は、みちのくの歌枕や古跡を巡る「おくのほそ道」の紀行で白河の関を訪れ「心許なき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ」と記した[1]
廃止後

関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた。1800年寛政12年)、白河藩松平定信は文献による考証を行い、その結果、白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じた。

戊辰戦争以後、明治時代には白河関より北にある東北地方内戦に敗れた「賊地」として蔑視されており、薩長土肥などの官軍側からは「白河以北一山百文(東北地方には山1つにつき100の価値しかない)」という蔑称も用いられた[1][5]

1897年(明治30年)、宮城県実業家である一力健治郎は「白河以北」から「河北」の字を取り、地方新聞紙河北新報』を創刊して東北軽視への反発と東北の復興を誓った[1][5]

また、1918年大正7年)に平民として初めて内閣総理大臣に就任した原敬岩手県盛岡市出身)は自身の俳号を『一山』と称した。この意味について、後世の評論家佐高信山形県酒田市出身)は「いわゆる官軍の輩が白河以北一山百文と嘲笑したのに抵抗してである。」と論じた[5]
現代

1960年代発掘調査の結果、土塁空堀を設け、それに柵木(さくぼく)をめぐらせた古代の防禦施設を検出、1966年昭和41年)9月12日に「白河関跡」(しらかわのせきあと)として国の史跡に指定された。

2022年令和4年)、1915年から続く高校野球甲子園大会(全国高等学校野球選手権大会)において初めて東北地方の学校が優勝したことについて、「優勝旗がついに白河の関を越えた」と表現され、東北で歓喜された(詳細は後述[1]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:43 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef