白河法皇
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白河天皇

第72代天皇
在位期間
1073年1月18日 - 1087年1月3日
元号延久
承保
承暦
永保
応徳
先代後三条天皇
次代堀河天皇

誕生1053年7月7日天喜元年6月19日
崩御1129年7月24日大治4年7月7日
陵所成菩提院陵
諱貞仁
別称六条帝
父親後三条天皇
母親藤原茂子
中宮藤原賢子
女御藤原道子
子女堀河天皇
覚行法親王
覚法法親王
?子内親王(郁芳門院)
令子内親王
ほか(后妃・皇子女節参照)
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白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:1073年1月18日延久4年12月8日) - 1087年1月3日応徳3年11月26日))。を貞仁(さだひと)という。

後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王堀河天皇中宮)。
目次

1 略歴

2 人物

2.1 女性関係

2.2 天下三不如意


3 系譜

3.1 系図


4 后妃・皇子女

5 諡号・追号・異名

6 在位中の元号

7 陵・霊廟

8 脚注

9 参考文献

10 関連項目

略歴

後冷泉天皇の東宮・尊仁親王(後三条天皇)の第一王子として生まれる。母茂子、外祖父の能信ともに幼少時に死別し、父尊仁親王は関白の藤原頼通に冷遇されていた。治暦元年(1065年)に13歳で元服。治暦4年(1068年)、父帝即位とともに親王宣下を受け、貞仁親王となる。翌延久元年(1069年)立太子。同3年(1071年)に関白藤原師実の養女・藤原賢子が参入した。

延久4年(1072年)、後三条から譲位され、20歳で即位する。関白は置いたが、延久5年(1073年)の後三条上皇の病没後も、父同様に親政を目指し、荘園整理などに力を入れ、永保元年(1081年宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立する等[1]、摂関家の権勢を弱めることに努める。また摂関家内部でも関白の地位をめぐる藤原教通信長父子と師実の対立があった。

父・後三条上皇とその母である陽明門院は、白河天皇の異母弟・実仁親王、更にその弟の輔仁親王に皇位を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を皇太弟と定めた。白河天皇はこれに反発したが、生前の後三条上皇や他の反摂関家の貴族の意志もあり(白河天皇は関白の養女・賢子を中宮としており、反摂関政治の立場としては好ましい状況ではなかった)、これを認めざるを得なかった。しかし応徳2年(1085年)に実仁親王は薨去し、これにより応徳3年(1086年)11月、白河天皇は輔仁親王ではなく、実子である8歳の善仁親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位した。なお、堀河天皇の生母で白河天皇が寵愛した中宮・賢子は、実仁親王薨去の前年に若くして病没している。太上天皇となった白河上皇は、幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる院政が出現した。以後も引き続き摂政関白は置かれたが、その実態は次第に名目上の存在に近いものとなってゆく。

ただし、白河上皇は当初から強い権力を有していたわけではなかった。天皇在位中からの摂関であった藤原師実とは協調を図っており、師実も争いを好まなかったこともあって、実際の政策決定過程において親政期及び院政初期には摂関政治と大きな違いはなかった(師実は摂政もしくは大殿として、白河上皇の院庁の人事や御所の造営にまで深く関与していた)。上記の通り早々に退位したのは実子・善仁親王への譲位が目的であり、善仁親王の母親は師実の養女・賢子であり、後三条天皇の在位期間を例外として、再び2代続けて藤原氏が天皇家の外戚となり、これは実際には摂関政治への回帰だったと言える。堀河天皇が成人すると、上皇の政治介入に反発する関白・藤原師通とともに親政を図って一時成功していた時期もあったが、幼帝の後見という目的を果たしたことや、後述のように出家したこともあって、白河法皇もこれを許容していた。

それが大きく転換したのは、師通の急逝による摂関家内部の混乱と、それに続く堀河天皇の崩御、その皇子で白河法皇の孫である第74代鳥羽天皇の即位が契機であったと考えられている。摂関政治の機能停止に伴って、父院である白河法皇が摂関に替わる天皇の補佐機能を行うようになり、更に堀河天皇の崩御に伴う幼帝(鳥羽天皇)の再出現と、政治的に未熟な若い摂政(藤原忠実)の登場によって、結果的に権力が集中したと考えられている。永久元年(1113年)に発生したとされる永久の変において、なお期待されていた輔仁親王を没落に追い込んだ。

政治的権限を掌握した白河法皇は、受領階級や武家出身の院近臣を用いて専制的な政治を行った。特に叙位除目に大きく介入し、人事権を掌握する。鳥羽天皇践祚後最初の除目である嘉承3年正月の除目では、近習の多くを実入りの多い国の受領に任じた。藤原宗忠はその態度を「今太上天皇の威儀を思ふに、已に人主に同じ。就中、わが上皇已に専政主也」と評している[2]。この除目以降、院の人事介入は「任人折紙」(にんじんおりがみ)という非公式の文書を、天皇や摂政に渡すことで行われた[3]。武士は、院の警護役として創設した北面武士などにあてた。特に康和4年(1102年)と保安元年(1120年)の2度にわたって藤原忠実の職権を停止したことは、摂関の権威の低下を内外に見せることになった。更に実仁親王立太子を巡る教訓から、堀河・鳥羽・崇徳の異母兄弟に対しては、親王宣下臣籍降下も認めずに出家させて、皇位継承権を剥奪した(法親王制度の創設は彼らへの慰藉の側面もある。なお、崇徳の異母弟である近衛天皇の誕生は白河院の没後である)。また、賢子との間の第一皇女・?子内親王に深い鍾愛を注ぎ、幼帝の立場を強化する意味合いもあって、?子内親王を堀河天皇の准母とし中宮に立后させた。非配偶の后(尊称皇后)の始めである。

熱心に仏教を信じ、嘉保3年(1096年)には鍾愛する皇女・?子内親王の病没を機に出家し、法名を融観として法皇となった。また、法勝寺などの多くの寺院や仏像をつくらせたが、その経済力は受領のものを活用し、成功がより一層横行するようになった。

堀河天皇崩御後は、自らの孫である第74代鳥羽天皇、更に曾孫の第75代崇徳天皇と3代にわたって幼主を擁し、43年間にわたり院政を敷いた。天皇の王権を超越した政治権力を行使するこうした「天皇家の家督」のことを、後世「治天の君」と呼ぶようになる。

大治4年7月7日(1129年7月24日)、77歳で崩御した。
人物
女性関係

不遇な状況にある東宮の王子であったため、治暦元年(1065年)に13歳で元服したが、妃の参入はなかった。延久元年(1069年)に立太子した後、同年義理の従姉にあたる藤原道子が参入し、同3年(1071年)には関白藤原師実の養女・藤原賢子が参入した。

中宮となった賢子との仲は非常に睦まじく、賢子の生前で白河天皇と関係を持っていたと記録に残る女性は、女御となった道子の他は典侍藤原経子程度であり、数は必ずしも多くない。賢子の死後は正式な后や女御を入れず、側近に仕える多数の女官・女房らと関係を持った。


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