白河天皇
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白河天皇

第72代天皇
在位期間
1073年1月18日 - 1087年1月3日
延久4年12月8日 - 応徳3年11月26日
即位礼1073年2月8日(延久4年12月29日
大嘗祭1074年12月12日承保元年11月21日
元号延久
承保
承暦
永保
応徳
時代平安時代
先代後三条天皇
次代堀河天皇

誕生1053年7月7日天喜元年6月19日
崩御1129年7月24日大治4年7月7日
三条西殿
大喪儀1129年8月1日(大治4年7月15日
陵所成菩提院陵
追号白河院
(白河天皇)
諱貞仁
別称融観(法名)
六条帝
元服1066年1月7日治暦元年12月9日
父親後三条天皇
母親藤原茂子
中宮藤原賢子
女御藤原道子
子女堀河天皇
覚行法親王
覚法法親王
?子内親王(郁芳門院)
令子内親王
ほか(后妃・皇子女節参照)
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白河天皇(しらかわてんのう、1053年7月7日天喜元年6月19日)〉-1129年7月24日大治4年7月7日〉)は、日本国第72代天皇(在位:1073年1月18日延久4年12月8日〉- 1087年1月3日応徳3年11月26日〉)。は貞仁(さだひと)。

後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王堀河天皇中宮)。
略歴

後冷泉天皇の東宮・尊仁親王(後三条天皇)の第一皇子として生まれる。母茂子、外祖父の能信ともに幼少時に死別し、父尊仁親王は関白の藤原頼通に冷遇されていた。治暦元年(1065年)に13歳で元服。治暦4年(1068年)、父帝即位とともに親王宣下を受け、貞仁親王となる。翌延久元年(1069年立太子。同3年(1071年)に後の関白藤原師実の養女・藤原賢子が参入した。

延久4年(1072年)、後三条天皇から譲位され、20歳で即位する。藤原教通、師実を関白に任じつつも、延久5年(1073年)の後三条上皇の病没後も父同様に親政を目指し、荘園整理などに力を入れ、永保元年(1081年宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立する等[1]摂関家の権勢を弱めることに努める。また摂関家内部でも関白の地位をめぐる教通・信長父子と師実の対立があった。なお、永保3年(1083年)から寛治元年(1087年)には陸奥国出羽国後三年の役が起こっている。

父・後三条上皇とその母である陽明門院は、白河天皇の異母弟・実仁親王、更にその弟の輔仁親王(摂関家に冷遇された三条源氏の系譜)に皇位を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を皇太弟と定めた。白河天皇はこれに反発したが、生前の後三条上皇や他の反摂関家の貴族の意志もあり(白河天皇は関白の養女・賢子を中宮としており、反摂関政治の立場としては好ましい状況ではなかった)、これを認めざるを得なかった。しかし応徳2年(1085年)に実仁親王は薨去し、これにより応徳3年(1086年)11月、白河天皇は輔仁親王ではなく、実子である8歳の善仁親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位した。なお、堀河天皇の生母で白河天皇が寵愛した中宮藤原賢子は、実仁親王薨去の前年に若くして病没している。太上天皇となった白河上皇は、幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる院政が出現した。以後も引き続き摂政関白は置かれたが、その実態は次第に名目上の存在に近いものとなってゆく。

ただし、白河上皇は当初から強い権力を有していたわけではなかった。天皇在位中からの摂関であった藤原師実とは協調を図っており、師実も争いを好まなかったこともあって、実際の政策決定過程において親政期及び院政初期には摂関政治と大きな違いはなかった(師実は摂政もしくは大殿として、白河上皇の院庁の人事や御所の造営にまで深く関与していた)。上記の通り早々に退位したのは実子・善仁親王への譲位による皇位継承が目的であり、善仁親王の母親は師実の養女・賢子であり、後三条天皇の在位期間を例外として、再び2代続けて藤原氏が天皇家の外戚となり、これは実際には摂関政治への回帰だったと言える。堀河天皇が成人すると、上皇の政治介入に反発する関白・藤原師通とともに親政を図って一時成功していた時期もあったが、幼帝の後見という目的を果たしたことや、嘉保3年(1096年)に後述のように出家したこともあって、白河法皇もこれを許容していた。

それが大きく転換したのは、師通の働き盛りな年齢での急逝による摂関家内部の混乱と、それに続く堀河天皇の崩御、その皇子で白河法皇の孫である第74代鳥羽天皇の即位が契機であったと考えられている。摂関政治の機能停止に伴って、父院である白河法皇が摂関に替わる天皇の補佐機能を行うようになり、更に堀河天皇の崩御に伴う幼帝(鳥羽天皇)の再出現と、政治的に未熟な若い摂政(藤原忠実)の登場によって、結果的に権力が集中したと考えられている。永久元年(1113年)に発生したとされる永久の変において、なお期待されていた輔仁親王を没落に追い込んだ。

政治的権限を掌握した白河法皇は、受領階級や武家出身の院近臣を用いて専制的な政治を行った。特に叙位除目に大きく介入し、人事権を掌握する。鳥羽天皇践祚後最初の除目である嘉承3年正月の除目では、近習の多くを実入りの多い国の受領に任じた。藤原宗忠はその態度を「今太上天皇の威儀を思ふに、已に人主に同じ。就中、わが上皇已に専政主也」と評している[2]。この除目以降、院の人事介入は「任人折紙」(にんじんおりがみ)という非公式の文書を、天皇や摂政に渡すことで行われた[3]。武士は、院の警護役として創設した北面武士などにあてた。特に康和4年(1102年)と保安元年(1120年保安元年の政変)の2度にわたって藤原忠実の職権を停止したことは、摂関の権威の低下を内外に見せることになった。更に実仁親王立太子を巡る教訓から、堀河・鳥羽・崇徳の異母兄弟に対しては、親王宣下臣籍降下も認めずに出家させて、皇位継承権を剥奪した(法親王制度の創設は彼らへの慰藉の側面もある。なお、崇徳の異母弟である近衛天皇の誕生は白河法皇の没後である)。また、賢子との間の第一皇女・?子内親王に深い鍾愛を注ぎ、幼帝の立場を強化する意味合いもあって、?子内親王を堀河天皇の准母とし中宮に立后させた。


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