白樺派
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『白樺』創刊号白樺派のメンバー後列左から:武者小路実篤、小泉鉄(1886-1954)、高村光太郎木下利玄正親町公和長與善郎、日下?(正親町実慶、1887-1938)。 前列、左から:田中雨村(1888-1966)、志賀直哉里見ク柳宗悦園池公致、青木直介(1889-?)、有島生馬(有島壬生馬)(1912年1月4日撮影).mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学

白樺派(しらかばは)は、1910年明治43年)創刊の文学同人誌白樺』を中心にして起こった文芸思潮の一つ。また、その理念や作風を共有していたと考えられる作家達のことである。
概略

大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって1910年代の文学の中心となった。1910年(明治43年)刊行の雑誌『白樺』を中心として活動した。

そのきっかけは1907年(明治40年)10月18日から神奈川県藤沢町鵠沼旅館東屋武者小路実篤志賀直哉が発刊を話し合ったことだと、志賀が日記に書いている。学習院の学生で顔見知りの十数人が、1908年から月2円を拠出し、明治43年(1910年)春の刊行を期して雑誌刊行の準備を整えたという[1]。同窓・同年代の作家がまとまって出現したこのような例は、後にも先にも『白樺』以外にない。『白樺』は学習院では「遊惰の徒」がつくった雑誌として、禁書にされた。彼らが例外なく軍人嫌いであったのは、学習院院長であった乃木希典が体現する武士像や明治の精神への反発からである[2]。さらには漢詩俳諧などの東洋の文芸に関しても雅号俳号の類を用いなかった。特にロダンセザンヌゴッホゴーギャンら西欧の芸術に対しても目を開き、その影響を受け入れた。また白樺派の作家には私小説的な作品も多い。写実的、生活密着的歌風を特徴とするアララギ派と対比されることもある。

白樺派の主な同人には、作家では志賀直哉有島武郎正親町公和園池公致木下利玄里見ク郡虎彦長與善郎の他、美術家では柳宗悦有島生馬、『白樺』創刊号の装幀も手がけた美術史家の児島喜久雄らがいる。武者小路はその明るい性格と意志の強さから思想的な中心人物となったと考えられている[3]。多くは学習院出身の上流階級に属する作家たちで、幼い頃からの知人も多く、互いに影響を与えあっていた。

彼らは恵まれた環境を自明とは考えず、人生への疑惑や社会の不合理への憤る正義感をすり減らさずに保ち得た人々であった。ロシアの文豪レフ・トルストイの影響を強く受けたことや、有島武郎がその晩年に自分の財産を小作人に分かち与えたこと、武者小路による「新しき村」の実験に見られるような急進主義にもそうした傾向はよく表れている[4]

白樺派のメンバーは、狭義には『白樺』同人を指すが、彼らが白樺派という呼称を用いていた訳ではない。ただ、彼らの活動は同時代の文学者や美術家に大きな影響を与えており、作家では千家元麿高村光太郎倉田百三尾崎喜八犬養健近藤経一新城和一、美術家では岸田劉生中川一政梅原龍三郎椿貞雄バーナード・リーチ南薫造斎藤与里富本憲吉木村荘八河野通勢九里四郎など、その理念に共鳴して同人との親交を深め、『白樺』に寄稿した者も少なくなかった。広義には彼らを含めて白樺派と称し、大正時代における文壇・画壇の主要な勢力の一つとなっていた。
白樺派と手賀沼白樺文学館

白樺文学館は、千葉県我孫子市の旧志賀直哉邸跡地前に[5]2001年平成13年)1月に白樺派の作品を広く公開するために建設された文学館である[6]

コンセプト立案者および初代館長は武田康弘日本オラクル初代社長の佐野力が創設し、2009年に千葉県我孫子市が運営を引き継いだ。白樺派のほか柳宗悦が始めた民藝運動についての資料を所蔵・展示する[7]

我孫子市にある手賀沼の北岸は当時は農村地帯であったが、我孫子駅の開業で東京から交通の便が良くなり、別荘地として人気が出つつあった。柳宗悦・柳兼子夫妻が1914年(大正3年)4月、宗悦の叔父である嘉納治五郎柔道家)の別荘向かいに引っ越し、庭にあった3本のにちなんで嘉納が「三樹荘」と命名。柳夫妻に誘われる形で『白樺』同人達が続いた。志賀直哉夫妻は1915年(大正4年)に移り住んだ。直哉は当時、父との不和に悩み、愛児が夭逝する不幸もあったが、ここで創作意欲を回復させ『城の崎にて』『和解』『小僧の神様』や『暗夜行路』(前篇のみ)を執筆した。さらに1916年(大正5年)には武者小路実篤実篤も居を構え、彼らとの交流から1917年(大正6年)英国人陶芸家バーナード・リーチが三樹荘裏に窯を築いた。直哉が京都へ転居した1923年(大正12年)を最後に各作家の居所は散り散りになるが、彼らの濃密な交流や東京からの文化人の来訪により、手賀沼北畔は白樺派や民藝運動の拠点となった[7]

我孫子市は、白樺文学館の運営を引き継いだほか、文学館や白樺派作家の別荘跡前を結ぶハケ(崖)下の道を「白樺派の小径(こみち)」と命名している。また宅地開発されそうになった志賀直哉邸跡を購入して書斎を移築した[7]
清春芸術村と清春白樺美術館清春白樺美術館武者小路実篤

現在の山梨県北杜市長坂町中丸に所在する清春芸術村および清春白樺美術館は、武者小路実篤が『白樺』第8巻第10号に発表した『日記のかはり』の中で語った、新美術館建設の理想が元になっている。

武者小路や志賀直哉を敬愛して親交のあった銀座吉井画廊社長・吉井長三が、白樺派の理想を実現すべく、山梨県旧日野春村、旧秋田村、旧清春村の3村合併に伴い、1975年(昭和50年)に廃校となっていた旧清春小学校跡地を買い取り、1981年(昭和56年)に芸術村を建設した。


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